朝鮮紡績労働者(戦前)
朝鮮紡織釜山工場3千名ストライキ 1930年の労働争議(読書メモ) 写真・「朝鮮紡績労働者(戦前)」 参照・「日本労働年鑑第12集/1931年版」大原社研編 ・協調会史料 ・「日本統治下の朝鮮」山辺健太郎著 ・朝鮮総督府発行『高等警察報』『朝鮮治安状況』 1930年1月に発生した日本資本の朝鮮紡織釜山工場ストライキ争議は、日本統治時代の朝鮮における大きな労働争議の一つである。世界恐慌の荒波と植民地における過酷な労働環境が重なる中、朝鮮紡織釜山工場労働者の大部分を占める女性たちが先頭に立ち、約3,000人が団結。強大な朝鮮総督府に守られた日本資本の経営者に対して、真っ向から闘いに立ち上がった。
1.朝鮮紡織株式会社(朝紡)とは 1917年、日本資本(「中外コンツェルン(中外産業系)」)が、朝鮮の釜山に大規模な紡織工場を構える朝鮮紡織株式会社を設立した。同コンツェルンは朝鮮域内で、ほかにも「朝鮮火薬製造」や「中外鉱業」などを広く経営していた。なかでも朝鮮紡織株式会社釜山工場は、朝鮮半島における最大規模の近代的な綿紡績工場であり、数千人の労働者を抱える巨大企業であった。 ・争議の契機 1929年秋に始まった世界恐慌の波を受け、会社側は一方的に「一律10%の賃金引き下げ」を通告。さらに強圧的な労働強化や合理化政策を急激に進めたことが、労働者たちの日頃の怒りを爆発させる直接の引き金となった。
2.朝鮮紡織釜山工場における労働環境
・法規制のない長時間労働 当時、日本国内で施行されていた「工場法」は、植民地である朝鮮や台湾には適用されなかった。そのため、1929年に日本国内で実施された女性や年少労働者の「深夜労働禁止」や「労働時間規制」が導入されないまま、1日11〜12時間、時には14〜15時間におよぶ過酷な長時間労働が常態化していた。昼夜2交代制が敷かれ、深夜労働も強制されていた。さらに、機械が破損すれば罰金を科され、業務中に負傷や病気になっても治療費すら支給されないという、限界まで肉体的負担を強いる環境であった。
・「監禁」に近い寄宿舎生活 遠方の農村から集められた女性労働者たちは、工場敷地内の寄宿舎に強制的に住まわされていた。食事の質は極めて低く、衛生状態も最悪であった。門限や私生活は厳しく制限され、外部との連絡や自由な外出は原則として禁止。実質的に「逃亡を防ぐための監禁施設」として機能していた。
・強制的な「天引き貯金」 支払われる僅かな給与からも、食費や寄宿舎費の名目で多額の費用が差し引かれた。さらに、逃亡防止の担保として「社内積立貯金」の名目で強制的に天引きが行われていたため、労働者の手元に残る現金はごく僅かであった。
3.深刻な民族差別
・工場における日常的な差別や暴力 当時、朝鮮紡織株式会社で働く日本人社員は、主に「監督官」「事務職」「技術指導員」といった、朝鮮人労働者を管理・監督する立場に就いていた。現場では、彼らによる朝鮮人労働者への鉄拳制裁、侮辱的な暴言、ハラスメントが日常的に横行していた。また、同じ作業をしていても、朝鮮人労働者の賃金は日本人労働者の半分以下であった。さらに、日本人には劣悪な寄宿舎ではなく社宅が用意されるなど、あらゆる面で明確な差別が存在していた。 朝鮮紡織のストライキが勃発した際、日本人社員の多くは会社側に立ち、率先してストライキ破りを担って争議団と敵対した。
4.女性労働者と釜山労働総同盟のオルグ
・女性労働者が主体の争議 ストライキに決起した朝鮮人労働者は3,000人以上にのぼり、そのうち約8割(2,300〜2,500人)を女性労働者が占めていた。
・地下での組織化闘争 地域組織である「釜山労働総同盟」が、かなり以前から朝鮮紡織工場内における労働組合の組織化とストライキ闘争の準備のためにオルグ(組織化活動)を展開していたが、その組織化運動の中心を担ったのは工場の女性労働者たち自身であった。
5. ビラ(1930年1月9日) ① 日本人監督官による「暴力・性的侮辱」への激しい告発 「釜山の姉妹たちよ、我々は奴隷ではない! 日本人の監督官どもは、我々が少しでも疲れて手を止めれば、家畜のように殴り、言葉にできない侮辱(暴言や差別)を投げつける。同じ人間として、この屈辱をいつまで耐え忍ばねばならないのか! 」「日本人の監督官どもは、朝鮮人を『牛馬』のように扱い、少しでも作業の手が遅れれば容赦なくビンタを浴びせ、足蹴にする。それだけではない。夜間の見回りと称して、寄宿舎の若い姉妹たちの部屋に無断で押し入り、言葉にするのも汚らわしい暴言や、身体を触るなどの卑劣な侮辱を繰り返している。この屈辱の涙を、我々はいつまで流し続けねばならないのか!」 スローガン「朝鮮人労働者に対する一切の暴言・暴力を根絶せよ!」 「人格を無視した侮辱的な処遇を即刻廃止せよ!」
②飢えと戦う「奴隷的労働・賃金差別」への抗議 「会社は東洋一の生産量を誇りながら、我々にはまともな食事すら与えず、虫の入ったような飯を食わせている。朝から深夜まで働かされ、手を傷つければ慰謝料(補償)もなく放り出される。さらに不当な罰金制で、ただでさえ雀の涙ほどの賃金をむしり取っている! 」
「機械の調子が悪くて糸が一本切れただけで、検査員はすべて我々朝鮮人のせいにし、雀の涙ほどの賃金から『不良品罰金』として容赦なくむしり取る。結果、1ヶ月死ぬ気で働いても、手元に残るのは日本人の半分にも満たない数円の小銭だけだ。怪我をしても補償はなく、使い捨てにされる。今こそこの奴隷の鎖を断ち切る時だ!」 スローガン「最低賃金を1日80銭に引き上げよ!」 「過酷な12時間労働を拒否し、1日8時間労働制を実施せよ!」 「不当な罰金制度および解雇制度を完全に撤廃せよ!」
③「光州学生運動」との連帯・抗日への呼びかけ 「いま、全国の学生や青年たちが日本の圧制に立ち向かって命がけで戦っている。我々朝紡の2,000人の労働者も、この民族の闘いから目を背けてはならない。資本家と警察の脅しに屈することなく、今こそ総罷業(ゼネスト)の火を燃え上がらせよ! 」 スローガン「朝鮮人と日本人のあらゆる差別待遇を撤廃せよ!」 「全工場の同胞よ、団結して総罷業(ゼネスト)を勝ち取ろう!」
6.ストライキの勃発と要求 1930年1月10日、前年末に会社側が一方的に通告してきた「賃金の10%引き下げ」に激怒した約3,000人の労働者が、一斉にストライキに立ち上がった。彼らが掲げた主な要求項目は以下の通りである。【主な要求項目】 1. 賃金引き下げの絶対反対(一方的な減給通告の撤回) 2. 最低賃金制度の導入(日給80銭の補償) 3. 1日8時間労働制の導入(過酷な労働時間の短縮) 4. 民族差別待遇の撤廃(日本人労働者との同一労働・同一賃金) 5. 年少工の夜間労働禁止 6. 不当な罰金制度の廃止 7. 業務上の負傷者への見舞金(休業補償)の支給 8. 待遇・環境の改善(寄宿舎の食事改善など) 9. 寄宿舎における人権蹂躙(監禁行為)の停止と外出の自由の確保 10. 暴力・暴言を振るう日本人管理職の排除および監督官の更迭 11. 争議団(ストライキ参加者)の解雇絶対反対
7.命がけの抵抗闘争
・「籠城闘争」と寄宿舎の要塞化 労働者たちはストライキ突入と同時に寄宿舎に立てこもり、出入り口をバリケードで封鎖した。警察や会社側によって個別に引きずり出され、分断されるのを防ぐため、集団で固まって生活空間を「要塞」へと変えて対抗した。
・歌とシュプレヒコール 狭い部屋に閉じ込められ、いつ弾圧が来るか分からない恐怖に打ち勝つため、彼女たちは労働歌や抵抗の歌を連日繰り返し大合唱した。また、敷地外から様子をうかがう市民や監視を強める警察に向かって、窓から一斉に要求を叫ぶなど、大声を使った抵抗を続けた。
・地域社会との連携 外部との連絡や情報交換を行うため、警察の目を盗んで寄宿舎の隙間からメッセージを書いたメモを投げたり、夜間に決死の覚悟で脱出して釜山労働総同盟の幹部らと接触を図ったりした。外部の支援者からも、彼女たちを支えるために差し入れやビラ配りが行われた。
・断食闘争と座り込み 会社側が要求を拒否し、警察が圧迫を強める中、彼女たちは食事を拒否する「断食闘争」や、一歩も動かない「座り込み闘争」を敢行。自らの命を人質にするような命がけの抗議行動で、徹底抗戦の構えを崩さなかった。
8.労働者たちの苦闘 華々しい抵抗の裏で、10代〜20代の若者が中心であった女性労働者たちは、極限の精神状態の中で多くの葛藤に引き裂かれていた。
・警察の暴力への恐怖 武装した日本人警察官や朝鮮人巡査が寄宿舎を包囲し、いつ突入してくるか分からないという恐怖が常に付きまとった。当時、逮捕されれば激しい拷問を受けることは公然の事実であり、とりわけ若い女性労働者にとって、男性警察官から受ける肉体的暴力や、精神的・性的な侮辱への恐怖は計り知れないものであった。
・女性たちの動揺を狙う会社 会社側は「今なら罪を問わないから職場に戻れ」「戻らない者は即刻解雇する」といった揺さぶりをかけ、争議団の切り崩しを図った。この弾圧に動揺して脱落する仲間が出るたびに、彼女たちは「自分も降伏すべきか」「いや、仲間を裏切るわけにはいかない」という激しい心理的葛藤に苦しめられた。
・「寒さと飢え」とのたたかい ストライキが長期化すると、会社側は嫌がらせとして寄宿舎への食糧供給を遮断し、電気や水道を止めるなどの強硬な「兵糧攻め」を敢行した。暗闇と寒さ、そして猛烈な飢えの中で、彼女たちは「このままでは餓死してしまうのではないか」という生存への恐怖とも戦わねばならなかった。
・故郷の家族への想い 彼女たちの多くは、農村の貧しい家庭を支えるために釜山へ出稼ぎに来ていた。ストライキ期間中は当然ながら賃金が支払われないため、「自分が闘争を続けるせいで、田舎の親や兄弟が飢えてしまうのではないか」という家族に対する想いが、彼女たちの心を激しく揺さぶった。
9.釜山労働総同盟(釜山労総)の役割 釜山労働総同盟は、工場内部の労働者と地域社会、さらには民族運動とを結びつける「司令塔」であり、「最大の支援組織」としての役割を果たした。
・争議の指導と戦略の構築 ストライキが勃発すると、釜山労総の幹部たちが実質的な指導部(罷業対策委員会など)に参画。会社側への要求書の作成、交渉の進め方、ストライキを維持するための具体的な行動方針を指導した。
・世論の喚起と「民族的抵抗運動」 釜山労総は、『東亜日報』や『朝鮮日報』などの民族系メディアを通じて、朝鮮紡織の悲惨な労働実態や会社側の不当性を告発し、全朝鮮的な関心と支持を集めた。これにより、日本の巨大資本に対して現地の朝鮮人労働者が団結して立ち向かう構図が明確となり、一工場の労働条件改善という枠を超え、日本の植民地支配に対する「朝鮮民族の抵抗運動」としての意義を全土へ発信した。
・「兵糧攻め」への対抗と後方支援 会社側による兵糧攻め(飢えによる屈服工作)に対抗するため、釜山労総は他の加盟組合、釜山地域の住民、商人、知識人らから寄付金(罷業義捐金)や食糧を必死に集めて労働者に分配した。炊き出しの実施や住居の確保など、物心両面から労働者たちの持久戦を支えた。
10.会社側と朝鮮総督府・警察による強硬弾圧 資本(会社)と国家権力(警察)は完全に一体となり、労働者に対して極めて容赦のない弾圧を加えた。
・朝鮮総督府・警察 朝鮮総督府警察は、このストライキを単なる労使紛争ではなく、「反日・独立運動」につながる危険な思想運動(社会主義運動)と見なした。多数の武装警察官を工場や寄宿舎へ投入して包囲網を敷き、労働者たちの集会を力ずくで強制解散させた。この過程で、労働組合の幹部や背後で支援していた釜山労働総同盟の活動家など地域全体で百数十名が検挙・逮捕された。
・会社側の交渉全面拒否と切り崩し 会社側は労働者側の要求を一切認めず、交渉を全面的に拒否した。さらにストライキが長引くと、闘争を先導していた幹部や活動家を「首謀者」として即座に解雇。職場復帰を条件とした個別交渉を進めるなど、労働者間の分断と組織の切り崩しを徹底した。
11.ストライキの終結
・争議団の解散 1930年1月24日、指導部の多くが逮捕され、警察や会社側からの激しい圧迫を受ける中で、これ以上のストライキ継続は困難と判断した争議団は解散を余儀なくされた。寄宿舎に籠城していた女性労働者たちは、武装警官隊の監視のもとで全員が強制的に就業へ駆り出された。
・会社側の対応と影響 この争議は労働者側の「敗北」に終わったものの、世論の非難も浴びた会社側は、その後の労務管理において一定の配慮や若干の待遇改善を強いられる結果となった。
12.各地の労働運動への波及 このストライキは、1929年の「元山(ウォンサン)ゼネスト」以降、朝鮮全土に波及した反帝国主義・反植民地主義の昂揚の中で発生したものであった。この朝紡争議の熱気は、同年の、そして翌年へと他地域・他業種の闘争へとさらに波及していった。
・7月の朝鮮窒素肥料工場争議(でっち上げ弾圧事件) ・8月の平壌(ピョンヤン)ゴム工場のゼネスト など各地の農民運動や反日抵抗運動への連動
13.感想 私は、1930年朝鮮のこの闘いの資料を読むにつれ、「かつての大久保製壜の経営者は、戦前朝鮮侵略時代の日本資本の悪虐非道をそのまま真似たのではないか」と強い衝撃を受けた。過酷な長時間労働・差別・暴力・虐待・酷使、「社内貯金」とその上天引きされ手取り数千円の賃金、貧しい食事、監禁同様の寄宿舎、交替勤務と深夜労働の疲労、その上残酷・卑劣な組合攻撃といじめ、解雇、弾圧、資本の手先警察・・・。あまりにもそっくりなのだ。nagasaki1218.hatenablog.com
資本家階級・支配者階級の本性はこんなにも変わらないものなのだ。決して昔のことではない。時代が変わっても、国が違っても彼ら資本家階級に絶対幻想は持つまい。私達の側も朝紡争議や朝鮮労働者階級の先輩労働者から学び、労働者自身が立ち上がり、彼女たちのように勇気をふるい、そして万国の労働者と団結して共に闘おう。
1929年の「元山ゼネスト」、1930年の「朝紡争議」をしっかりと記憶したい。(以上)