朝鮮・新高山駅における労働争議 1930年の労働争議(読書メモ)

朝鮮・新高山駅における労働争議
1930年の労働争議(読書メモ)

参照・「日本労働年鑑第12集/1931年版」大原社研編
  ・ 協調会史料
  ・『日本統治下の朝鮮』山辺健太郎著
  

1、日本の財閥や朝鮮総督府鉄道局

 朝鮮・新高山(シンゴサン)駅周辺(現在の江原道高山郡に位置する京元線の主要駅)で展開していた経済活動の主役は、日本の大財閥や、総督府からインフラ利権を獲得した日本の運送請負業者・鉱山企業であった。とりわけ新高山駅の荷役や周辺の運送を担って国策インフラの独占をしていたのは、朝鮮総督府鉄道局から公認・優遇された日本系の請負業者(大華組など)や運送会社(丸星など)であった。これら日系の会社は、朝鮮総督府が推進する「低米価・低賃金政策」の恩恵を最大限に受けていた。日本人の請負業者(ボス)が朝鮮人労働者を極めて安い賃金で酷使し、世界恐慌の不況による損失をすべて労働者の賃金カットや未払いで補うという構造が常態化していた。

2、スローガン「大衆の中へ」

 新高山地域の日雇い労働者の多くは、鉱山など過酷な労働現場で低賃金にて酷使されていた。彼らの多くは独身であり、「飯場(ハンバ)」と呼ばれる狭い寄宿舎で共同生活を送っていた。1929年の元山ゼネストで戦った活動家らは、その後、新高山地域の中でスローガン「大衆の中へ」を合言葉に、これら労働者と共に働き、一緒に生活をしながら、「夜間学校」と「読書会」の組織化に成功していた。

3、賃下げ反対のストライキ

 1930年7月中旬、新高山駅を拠点とする鉄道運送会社が発表した賃下げに反対する荷役労働者や周辺の鉱山労働者、土木作業員たち数百人が、賃金未払いの解消や労働条件の改善を求めてストライキに突入した。

【要求項目】
一、賃金の引き上げ、または不当な賃下げの撤回
一、労働時間の短縮と過酷な労働環境の改善
一、日本人管理職や飯場ボスによる不当な虐待・民族差別待遇の撤廃
一、賃金未払いの全額支給
一、労働組合の承認と交渉権の確保

4、衝突(1930年7月21日前後)

 日本人経営者(請負業者)側がストライキを崩すために「スト破り」の労働者を投入したことで、7月21日、労働者側との間に激しい暴動的衝突が発生した。数日間にわたり、警察駐在所への抗議デモや、鉄道輸送をストップさせるサボタージュ闘争が展開され、地域一帯の緊張が最高潮に達した。7月21日の衝突直後、警察は、「数十名」を検挙した(『東亜日報』)。

5、一斉検挙(7月末)

 その後、咸鏡南道の警察当局が新高山に新たな武装警官隊を急派し、組合幹部やデモを主導した労働者たちを次々と検挙・弾圧し、7月末までに闘争は強制的に鎮圧された。検挙された労働者は、ストライキの扇動だけでなく、裏で非合法組織「赤色労働組合準備会」を組織していた中心人物や、警察駐在所への襲撃・サボタージュ(鉄道の妨害)を主導したとされ「十数名」が核心人物として起訴・送致された。

6、朝鮮総督府

 資本の番人としての朝鮮総督府・警察力にとって、新高山駅を通る京元線(鉄道)は、朝鮮半島の物資を日本本土へ送り、ひいては満洲進出への兵站(軍需輸送)を支える「国家最高重要の動脈」であった。そのため、朝鮮総督府はここでの労働争議を、単なる民間企業と労働者のトラブルではなく、「大日本帝国の基盤を揺るがす重大な不法行為」とみなした。

• 警察・駐在所による支配・監視
 当時、現地の日本企業や請負業者側は、労働者が不満を漏らしたり不穏な動き(組合結成など)を見せたりすると、即座に地元の警察駐在所に通報していた。警察は「企業の私設警備員」さながらに機能し、日常的に労働者を支配・監視・威嚇していた。

• 「スト破り」の手助け
 1930年7月に労働者がストライキに突入した際、日本人経営者側は即座に別の地域から「スト破り」の労働者を投入した。総督府の警察当局はこのスト破りを物理的に護衛し、抗議する地元労働者を力ずくで排除した。

7、「治安維持法」の適用

 1930年当時の朝鮮総督府による最大の警戒対象は、労働運動が「民族独立運動」や「共産主義運動(赤色組合運動)」と結びつくことであった。新高山争議で労働者たちが「未払い賃金の支払い」や「賃下げ撤回」という正当な経済的要求を掲げた際も、総督府はこれを裏で社会主義者が操る「反体制暴動」と決めつけた。衝突が起きると、総督府は咸鏡南道の警察から武装警官隊を急派して数十名を一斉検挙した。これは単なる労働法上の争議ではなく、国家体制を転覆しようとした罪(治安維持法違反)を適用して指導部を逮捕・処罰するものであった。これにより、日本資本の財産と利権は国家権力によって完全に守られた。

8、朝鮮総督府との更なるたたかい

 新高山争議における日本資本と朝鮮総督府の関係は、「日本資本が朝鮮人労働者を極限まで搾取して利益を上げ、その搾取に対する労働者の反発(ストライキ)を、総督府が警察力と治安維持法を使って暴力的に圧殺する」という、植民地型資本主義の典型的な支配抑圧そのものであった。
 この時、総督府によって合法的・経済的な解決の道を完全に閉ざされたことが、その後、活動家や労働者たちに、さらなる「非合法・地下組織」的運動へと身を投じさせた。

9、まとめ

 この朝鮮新高山におけるストライキに続き、1930年代に咸鏡道全体で次々に生まれた戦闘的労働組合、農民組合。

*端川(タンチョン)数千名の農民蜂起(1930年〜1931年)
*咸南(ハムナム)赤色農民組合事件(1930年代半ば)検挙者が1,000〜2,000人に及ぶ大闘争。
*さらに「抗日遊撃隊(パルチザン)」などの武装抵抗運動へと合流

(以上)

朝鮮の新興長豊炭鉱労働争議 1930年の労働争議(読書メモ)

朝鮮の新興長豊炭鉱労働争議
1930年の労働争議(読書メモ)
参照・『日本労働年鑑 第12集』(1931年版)の「第4編 労働運動 > 第7章 朝鮮の労働運動」
 
・会社:新興長豊炭鉱
・争議発生日:1930年(昭和5)5月3日
・場所:咸鏡南道 新興郡長豊
・争議団(労働者数):長豊炭坑の労働者 約300名
・ 形態:ストライキおよび会社・警察への暴動的抵抗

 1930年5月、咸鏡南道新興の長豊炭鉱において、労働組合の設立を阻もうとする日本人経営者の不当解雇攻撃と朝鮮総督府警察の暴力弾圧に対し、約300人の労働者は怒り起ちあがった。新興長豊炭鉱労働者は炭鉱施設と日本人幹部の私宅を次々に襲い破壊した。警官部隊の銃撃によって多くの労働者が血を流して倒れた。しかし、労働者は怯むことなく斧やハンマー、棍棒などを手に激しい肉弾戦で戦った。
 なお同年7月にも、咸鏡南道の端川(タンチョン)でも、農民約2,000人が朝鮮総督府の山林政策に反対して蜂起し郡庁を包囲した。多数の死傷者が出る大暴動も起きている。同地域では民衆の抵抗運動が激化していた。
 
1、労働実態
 当時の新興長豊炭鉱では日本人経営者のもと、500名 〜 600名の朝鮮人労働者が極めて劣悪な環境に置かれていた。
 
• 飯場(はんば)制度の悪用
 当時は「飯場頭(はんばがしら)」と呼ばれる請負人が労働者を集め、宿舎や食事を提供する代わりに賃金をピンハネ(中間搾取)する飯場制度が横行していた。経営者側はこの制度を利用して労務管理を丸投げし、劣悪な環境での労働を強いることで利益を上げていた。
 
• 低賃金と長時間労働
  世界恐慌(1929年〜)の波が押し寄せる中、資本家側は労働者の賃金を一方的に引き下げ、さらなる過酷な長時間労働を強いていた。
 
• 暴力と民族差別の労務管理
 当時の朝鮮内の日本資本による多くの炭鉱では、日本人管理者による朝鮮人労働者への日常的な罵倒や殴打などの暴力的な労務管理が常態化していた。新興長豊炭鉱でもまったく同様であった。労働者側の襲撃対象が「会社事務所」だけでなく「日本人幹部の私宅」にまで及んだ事実は、日本人現場管理者に対する労働者たちの日頃から抱いていた強烈な階級的憎しみを示している。
 
• 権利の剥奪
 労働条件を改善するための労働組合を結成しようとする動きに対しても、資本家側は即座に新興警察署に通報し、権力と結託して労働者側の要求は一切認めず、その上、徹底的な暴力的弾圧をしてきた。
 
2. 争議の経過(1930年5月〜6月)
 
(労働組合の結成計画と要求提出) 
 労働者たちは日頃の低賃金、過酷な長時間労働、日本人管理者による暴力に抵抗するため、ひそかに「新興長豊労働組合」の設立を計画し、会社側へ以下の要求書を提出した。しかし、会社側は即座に、これを「赤化(社会主義)運動」とみなして一切を拒否し、警察に通報した。
 
(要求書)
 一、引き下げられた賃金の引き上げ・復旧、および不当なピンハネ(搾取)の是正
 一、日本人管理者や飯場ボスによる「暴力・暴言(虐待)」の絶対反対
 一、劣悪な坑内労働における安全・労働条件の改善
 一、労働組合結成に対する会社側の干渉・妨害の禁止
 一、不当な解雇即時中止
など
 
• 5月下旬〜6月上旬
(解雇攻撃) 
 5月1日のメーデー闘争の熱気が冷めやらぬ5月3日、会社側は、労働組合を組織しようとしていた中心的労働者を解雇し、山から追放しようとしてくるなど労働者を脅迫しながら激しく干渉してきた。これに激怒した労働者たちが一斉に炭鉱内でのサボタージュ(同盟怠業)から本格的なストライキ体制へ突入した。
 
(ストライキ参加数)
 炭鉱で働く朝鮮人労働者約300名がストライキに突入。

• 6月22日前後
(会社・警察の暴力に対する炭鉱労働者の決起)
 解雇撤回を求めて会社事務所に押し寄せた労働者たちに、会社側傭員と新興警察署の警官部隊がひどい暴力をふるった。労働者たちの怒りは頂点に達した。彼らは炭鉱の現場事務所や採炭設備を叩き壊し、さらに労働者を極限まで酷使していた日本人幹部の邸宅を徹底的に襲撃・破壊した。現場に急行した新興警察署は60名の労働者をその場で逮捕した。
 
• 6月23日〜25日
(武装警察との肉弾戦)
 新興警察署の警官部隊の銃撃によって多くの朝鮮人労働者が血を流して倒れた。これに対し、労働者側は怯むことなく、炭鉱の作業道具である「斧」「ハンマー」「棍棒」などを武器に応戦。銃を持つ武装警官隊に突撃する肉弾戦を展開した。多数の負傷者を出た。
 山中に逃走した労働者を警察部隊が包囲・追跡した。
 
• 6月下旬〜7月頭
(容赦ない鎮圧と大検挙)
 近隣の警察署も動員した圧倒的な武力の朝鮮総督府警察により、労働者側は多数の負傷者を出し、ついに争議は暴力的に圧殺された。炭鉱一帯は完全に制圧された。警察は炭鉱内だけでなく周辺の集落まで大規模な家宅捜索を実施。運動を主導した幹部や現場で激しく抵抗した100名を超える労働者を片っ端から逮捕した。検挙者は厳しい拷問・処罰を受けた。
 
3、『東亜日報』などの報道
 朝鮮人による民族新聞であった『東亜日報』や『朝鮮日報』は、朝鮮総督府による「検閲(記事の削除・伏字・発行差し止め)」という極めて厳しい制約を受けた。しかし、これら民族紙は報道制限の枠内において、事態の背景にある構造的要因を社会的に提起する論調を展開した。

• 「悲惨な労働環境」という根本原因への言及
  なぜ労働者たちがここまで激昂したのかという背景(世界恐慌による一方的な減給、日本人管理者による日常的な虐待や暴力、非人間的な飯場制度)を記事に盛り込み、経営者側の非道な労務管理こそが事件を招いたと暴露した。
 
• 「組合結成の正当性」の擁護
  労働者側は当初から暴動を目的にしていたわけではなく、「労働組合の設立」という正当な権利を求めたのに対し、会社側が無慈悲にも指導者を解雇したことこそが悲惨な事態を招いた原因であると解説した。
 
• 労働者側の甚大な被害への同情
  警察の非情な銃撃と多くの炭鉱夫の負傷者、さらに周辺の集落まで巻き込んで100名以上が容赦なく連行・検挙されたという労働者側の悲劇を大きく報じ、同胞(朝鮮人民衆)の怒りや悲痛な声を代弁した。
 
4、1930年朝鮮におけるその他の日系資本炭鉱争議
 
・咸鏡南道・文川(ムンチョン)炭鉱労働争議(1930年)
 長豊炭鉱と同じ咸鏡南道に位置する文川(ムンチョン)炭鉱でも、1930年に激しい争議が発生した。世界恐慌を理由に、会社側が一方的な「賃下げ」と「人員整理」を断行したため、朝鮮人労働者が結束してストライキに突入。待遇改善要求と激しい抗日・階級闘争へと発展した。最終的には日本警察の介入により多数が検挙され、弾圧された。
 
・平安南道・价川(ケチョン)炭鉱労働争議(1930年〜1931年)
 朝鮮屈指の炭田地帯であった平安南道の价川炭鉱でも、1930年末から1931年にかけて大規模な争議が起きた。危険な坑内労働における安全対策の不備、日本人職員による民族差別や虐待、そして恐慌下の賃金カットに抗議して数百人規模の労働者が一斉に立ち上がった。この争議でも労働者側は強硬な姿勢を崩さず、会社施設への暴動的な抗議行動を展開したが、総督府警務局による徹底的な弾圧(治安維持法の適用など)によって指導部が逮捕され、強制的に鎮圧された。
 
5、『日本労働年鑑』
 『日本労働年鑑』は、新興長豊炭坑争議が「合法的枠組みを完全に超えた、初期の最も激しい肉弾戦(暴動)」となったと特筆している。また同書では、この争議が7月の「端川(タンチョン)農民暴動」や「新高山駅の争議」へとなだれ込んでいった1930年朝鮮労働運動先鋭化の導火線として位置づけられている。

 • 咸鏡南道 端川(タンチョン)農民暴動(1930年7月20日)
  暴動参加者数: 約2,000名の農民が郡庁へ突入。
  死傷者数: 警察の実弾射撃により、その場で16名が死亡(負傷者多数)。
  検挙者数: 168名が治安当局に検挙される。

 • 咸鏡南道 定平(チョンピョン)農民運動(1930年7月)
  運動参加者数: 「農民同盟」の指導のもと、1万300名余の農民が一斉に蜂起・展開

(以上)
 
 
 
 

朝鮮窒素肥料工場争議と治安維持法違反でっち上げ「咸南共産党事件」弾圧 1930年の労働争議(読書メモ)

朝鮮窒素肥料工場争議と治安維持法違反でっち上げ「咸南共産党事件」弾圧
1930年の労働争議(読書メモ)
 
 この工場は、のちに水俣病問題で知られるチッソ(当時:日本窒素肥料)の朝鮮における主力拠点であった。朝鮮総督府権力と巨大資本が結託した過酷な環境下で、朝鮮の労働者が民族差別や凄惨な搾取に対して蜂起しようとした闘いである。
 1930年に朝鮮・興南(フンナム)で発生した朝鮮窒素肥料工場の労働争議とその弾圧は、日本の新興財閥・日窒コンツェルンが植民地朝鮮に築いた「東洋一の電気化学コンビナート」を舞台とする極めて重要な事件であった。

1、前史:工場の始動と地下組織の形成(1929年末〜1930年初頭)
• 1929年11月〜12月
 日本窒素肥料(日窒)の興南第一硫安工場が落成し、本格的な操業を開始。しかし、防護措置のない現場では「興南病」と呼ばれる有毒ガス公害や労働災害が多発。日頃の劣悪な待遇や、日本人の半分以下という賃金差別などに対する朝鮮人労働者の怒りが急速に高まっていった。
 
• 1930年1月〜3月
 労働者の間で地下読書会や夜学運動が広がる。
 
2. 第1次弾圧:知識人の検挙(1930年春)
• 1930年3月〜4月
 咸興地域の「新幹会(民族運動組織)」の幹部、教員、青年運動家たちが一斉に検挙される。労働者にハングル文字や法律などを教え、労働環境改善のため地道な活動をしていた人々を、警察は「不穏な共産主義思想を工場労働者や学生に広め、暴動を扇動しようとした」として、先手を打って排除(予防検挙)した弾圧事件である。
 
3. 第2次弾圧:朝鮮窒素肥料興南工場ストライキ計画弾圧(1930年夏)
• 1930年7月12日〜14日
 朝鮮窒素肥料興南工場の労働者地下指導部は、工場の裏山などで秘密裏に集合。民族差別撤廃・賃金引き上げ・8時間労働制の実施などを要求し、「7月17日、5,000名(全労働者)による一斉ゼネラルストライキ敢行」の方針を決定した。
 
• 7月15日
 組合員たちが、工場内外に団結を訴える以下の激文(ビラ)を作成した。
 
4. 激文ビラ「すべての朝鮮人労働者よ、立ち上がれ!」

• 「生存権の主張」と過酷な労働環境の告発
「我々は近代化の奴隷ではない! 興南の空に満ちる有毒ガス(興南病)によって、多くの同胞が血を吐き、病に倒れ、使い捨てにされている。工場は我々の命を削って莫大な富(肥料)を貪っているが、我々に返されるのは病気と死だけだ!」
• スローガン
「我々の命を奪う有毒ガス対策を直ちに実施せよ!」
「殺人労働を拒否し、1日8時間労働制を勝ち取ろう!」
「労働中の負傷・死亡に対する完全な慰謝料(補償)を支給せよ!」

• 「激しい民族差別」への怒り
「同じ工場で、同じように汗を流し、いや、日本人よりも危険で汚い現場で働いているにもかかわらず、なぜ我々朝鮮人の賃金は彼らの半分以下なのか! なぜ朝鮮人だけが泥豚のような宿舎に押し込められ、暴力と侮辱に耐えねばならないのか!」
• スローガン
「日本人労働者との著しい賃金差別を即刻撤廃せよ!」
「朝鮮人労働者に対する一切の暴言・暴力を禁止せよ!」
「不当な解雇を廃止し、朝鮮人にも昇進の機会を与えよ!」
 
• 「団結と反帝・反資本」への呼びかけ
「資本家(日窒コンツェルン)と植民地権力(総督府・警察)は一体となり、我々から絞り取れるだけの血を絞り取ろうとしている。個々で泣き寝入りする時代は終わった。今こそ全工場の同胞が一つに団結し、総罷業(ゼネスト)の鉄槌を下すのだ!」
• スローガン
「朝鮮窒素の全労働者は一斉に工具を置き、総罷業(ゼネスト)に突入せよ!」
「我々の生存権をかけて、最後の一個人が倒れるまで戦い抜こう!」
「万国の労働者、団結せよ!」
 
• 1930年7月16日(決行前日・事件の発覚)
 スパイにより、ビラ配布とストライキの計画が実行直前に特高警察に発覚。警察部隊は即座に朝鮮窒素肥料興南工場および周辺の宿舎を完全包囲し、労働者の中心メンバー数十人を電撃的に逮捕した。
 
5. 「爆破」計画のでっち上げ
• 1930年7月後半〜8月(凄惨な拷問)
 咸興警察署の地下で、逮捕された労働者たちに対する凄惨な拷問が連日行われた。
 
• 「国策工場の爆破」「火薬庫の強奪と武装蜂起」のでっち上げ
 警察は「労働者や地域の活動家が、7月17日のストライキに合わせて工場内の火薬庫を襲撃してダイナマイトを強奪し、東洋一の国策工場と発電所を爆破する計画であった。さらに近隣の利原鉄山を襲撃して労働者を武装化し、ソビエト政権を樹立しようとしていた」と、重大な治安維持法違反として大々的に発表した(咸南共産党事件)。当時の新聞も「東洋一の化学工場群を爆破し、ソビエト政権を樹立しようとした凶悪な共産主義者の陰謀」として大々的に報じた。
 
6. 第3次弾圧:大検挙と裁判(1930年末〜1931年)
• 1930年10月〜12月
 夏の検挙から逃れていた残党や、彼らと連絡を取り合っていた他地域の労働運動家、さらに満洲の人脈まで巻き込んだ連鎖的な大検挙(第3次検挙)が行われた。
 
• 1931年初頭
 「咸南共産党事件」で逮捕され取り調べを受けた労働者・活動家は数百人に上り、最終的に数十名から100名近くの朝鮮人労働者が治安維持法違反などで起訴され、咸興刑務所に投獄された。
 
• 長期にわたる「予審」と未決勾留
 当時は正式な公判(裁判)が始まる前に「予審」という非公開の取り調べが長期間行われた。咸南共産党事件の被告たちは、1年から1年半以上もの間、劣悪な独房に未決囚として勾留された。
 
7. 法廷闘争
 日本警察が描いた「火薬庫を襲撃して工場を爆破しようとした」という凶悪なテロのシナリオに対し、労働者と朝鮮人弁護士たちは法廷で真っ向から立ち向かった。特に金炳魯(キム・ビョンノ)をはじめとする刑事弁護共同研究会の朝鮮人弁護士たち(抗日弁護士)は、鋭い論理で警察のシナリオの矛盾を突き、その欺瞞を暴露した。
 
• 戦術①:客観的証拠の不在
 弁護側は、「爆破や襲撃を計画していたというが、押収された武器や爆薬が一切ないのはなぜか」と追及。準備行為すら存在しない以上、テロ計画は「警察の創作」であると主張した。
 
• 戦術②:拷問による自白強要の糾弾
 被告である労働者たちが「警察署の地下で凄惨な拷問を受け、言われるがままの調書に無理やりサインさせられた」事実を法廷で公に証言させ、検察側の「自白調書」の信憑性を激しく糾弾した。
 
• 戦術③:正当な労働運動へのすり替え批判
 「彼らが求めていたのは、有毒ガス(興南病)の対策や、日本人との著しい賃金差別の撤廃という、生存をかけた正当な労働条件の改善である」と主張し、これを国家転覆罪(治安維持法)に結びつける当局の横暴を批判した。
 
8. 判決・重刑
 警察はこの争議を、「国策工場の爆破」「火薬庫の強奪と武装蜂起」という治安維持法違反の死刑・無期懲役に相当する凶悪テロ事件として発表し、労働者や運動を支援する人々を威嚇しようとした。しかし、実際の判決では死刑や無期懲役の確定者は出なかった。この「罪状(テロ計画)の深刻さに比して最高刑が低かった」という事実こそが、爆破計画が警察のでっち上げであったことの何よりの証拠であった。司法(裁判所・検察)側も、客観的な物的証拠が一切なく、拷問による自白調書しかないため、最高刑を科すことには無理があると判断せざるを得なかったのである。
 
 しかし、下された判決は労働運動を完全に圧殺するに十分な重刑であった。

• 長期懲役刑: 労働組合の組織化を主導したリーダー格の中心人物には、治安維持法および特別刑法違反が適用され、懲役5年から8年、あるいは10年近い重刑が言い渡された。
 
• 数十名の一斉有罪: ストライキの準備やビラ(激文)の作成に関わった一般労働者たちに対しても、懲役2年〜3年(執行猶予なし)の実刑判決が乱発された。
 
• 生存権の剥奪: 刑期を終えた後も、彼らは「思想犯」として生涯にわたり警察の監視対象(要視察人)とされ、興南工場からは永久に解雇・追放された。
 
9. 弾圧された「正当な労働運動」
 この時期の朝鮮窒素肥料工場の労働者たちが実際に求めていたのは、過酷な「興南病(有毒ガスによる健康被害)」からの保護、日本人との極端な賃金差別の撤廃、1日8時間労働といった、劣悪な環境を生き抜くための生存権の主張や労働条件の改善という、人間として当然の要求であった。つまり、7月17日のストライキ計画は正当な労働運動であった。
 しかし、植民地政府・朝鮮総督府にとって、東洋一の国策コンツェルン(日窒)の稼働が止まることは絶対に容認できなかった。そのため、彼らの正当な要求は、治安維持法という最高権力の刃によって「国家転覆を狙う共産党の陰謀」へとすり替えられ、徹底的に圧殺された。これがこの事件の真実である。
 
10. 苛烈な弾圧と階級的憎しみ
 「不穏なビラを所持していた」「工場の労働者に読書会を開いた」「ストライキを計画した」というだけで、特高警察による拷問の末に懲役10年近い獄中生活を強いられた労働者や、その家族の無念は想像に難くない。興南労働者の敵への階級的憎しみはいよいよ深まっていった。
 
11. 興南労働者は再びたちあがった
 朝鮮総督府の弾圧によって、1930年の朝鮮窒素肥料工場を中心とする興南地域の労働運動は一旦は壊滅させられた。しかし、労働者たちは再び立ち上がった。
 数年後、運動は数千人規模の地下組織へと成長し、1934年末〜1935年には新たな戦闘的労働組合「興南赤色労働組合」として歴史に登場する。日中戦争へと向かう戦時体制下(1931年〜1935年)において、興南の各工場(硫安、曹達、火薬工場など)における日本の軍需生産を足元から脅かす、一大抗日・労働運動へと発展していった。
 
 朝鮮総督府警察は1934年後半から1935年における「興南赤色労働組合事件」で、労働者を数百人規模で芋づる式に逮捕した。この時の興南・咸興を中心とする咸鏡南道の革命的労働組合運動に関連し、検挙された人数は半島全体で1,759名にものぼった。
 
(以上)
 
【参照】
・『労働年鑑 第12集/1931年版』(大原社会問題研究所編)
・『思想彙報』『特高月報』(特高警察報告書)
・AI

朝鮮仁川の三共精米所ストライキ 1930年の労働争議(読書メモ)

朝鮮仁川の三共精米所ストライキ 1930年の労働争議(読書メモ)

参照・「日本労働年鑑第12集/1931年版」大原社研編
  ・協調会史料
  ・『日本統治下の朝鮮』山辺健太郎著
  ・AI 

1、 三共精米所ストライキ
 
 1930年1月の朝鮮仁川の加藤精米所争議で高まった熱気が冷めやらぬ5月中旬、同じ仁川の三共精米所で賃下げの噂が流れたことをきっかけに300名以上の選米女工・職工が一斉にストライキに蜂起した。


2、労働者側の要求内容

 三共精米所で掲げられた要求は、加藤精米所のストライキ同様、当時としては世界の最先端を行くような労働者の人権と女性の権利を内包した極めて先進的なものであった。
要求
一、男女同一労働同一賃金の実施
一、女性労働者(選米女工)のための「授乳時間」の確保
一、民族差別の撤廃と暴言・虐待の禁止
一、不当解雇の禁止と雇用保障

3、三共精米所労働者が駆使した「4つの闘争戦術」

 単に仕事をボイコットするだけでなく、植民地権力やスト破りに対抗するために、以下のような極めて組織的で近代的な手段が使われた。

(1) 工場封鎖と「座り込み(シットダウン・スト)」
 労働者たちは工場から退去せず、精米機や倉庫の前に座り込む、いわゆる「座り込み(シットダウン・スト)」闘争戦術をとった。これにより、資本家側が「代わりの労働者(スト破り)」を工場内に引き入れて操業を再開することを物理的に不可能にする戦術だった。

(2)「工場細胞(サークル)」による分散型の地下指揮網
 当時の朝鮮総督府は、公開された組合組織を即座に治安維持法で解体・逮捕で弾圧してきた。これに対抗するため、三共精米所の労働者らは「5〜6人単位の小グループ(細胞)」を無数に組織し、グループごとに現場リーダーを決め、トップが警察に逮捕されても、次のリーダーが自動的に指揮を引き継ぐ「首謀者不明」のゲリラ的指揮体制を維持した。こうして長期戦を闘える組織体制を守った。

(3) 「夜警団」の組織とスト破りの監視・説得
 経営側がスト破りのため周辺の貧困農村から未熟練労働者を雇おうとした。対抗する労働者側は工場周辺に「夜警団(サボタージュ監視員)」を配置した。彼らは、スト破りとして来港した労働者を暴力で排除するのではなく、「今ここで裏切れば、朝鮮人労働者全員の未来が閉ざされる」と涙ながらに説得し、味方に引き入れる手段を取った。

(4)「共闘委員会」の結成と地域ネットワーク
 三共精米所の労働者は、「仁川労働総同盟」や「仁川青年同盟」の活動家を媒介とし、市内のマッチ工場、ゴム工場、さらには埠頭荷役の頭領層まで巻き込んだ「仁川精米争議後援会(共闘委員会)」を秘密に結成した。これが、後述する深夜の大規模なビラ戦術の実行部隊となった。

4、徹底した地域連帯ビラ宣伝活動(1930年5月下旬〜夏)

 三共精米所の争議は、単なる「一工場内の不満」にとどまらなかった。労働者側は加藤精米所ストライキの経験を踏まえ、単に操業を止めるだけでなく、仁川青年同盟や仁川労働総同盟の活動家らと緊密に連携して、連日深夜に仁川市街地や他の工場、埠頭周辺へ「檄文(ビラ)」を大量に張り出したり、散布するなど仁川中の全労働者に呼びかけ続けた。散布されたビラの中には、
「三共精米所の女工たちの苦境を見よ」
「我々の闘いは、すべての朝鮮人労働者の生存権をかけた闘いである」
といったメッセージがハングルと日本語で書かれ、また他工場の労働者たちに「スト破りの拒否」を強く呼びかけた。たちまち仁川市民やマッチ工場の女工たちの応援が起きた。

【5月中旬:ストライキの勃発と第一波のビラ】

• 最初期に撒かれたビラ(職場の仲間向け)
「見よ、加藤の仲間たちは団結によって職場を守り抜いた。今度は我々の番だ。三共の資本家どもは、我々の血と汗を吸って肥え太りながら、さらに我々の賃金を削ろうとしている。全職工よ、機械を止めよ。一歩も引いてはならない!」

【6月〜7月:闘争の激化と「全労働者・市民」へ向けた第二波のビラ】
 争議が1ヶ月を過ぎ、工場側が警察の護衛のもとでスト破りのために、中国系労働者や他地域の労働者を呼び寄せようとした夏、闘争は最高潮に達した。労働者たちは深夜、仁川の街中や劇場の前、居住区の壁にハングルと日本語で書かれたビラを数千枚規模で一斉に貼り出した。

• 市街地に散布されたビラ(市民・他産業の労働者向け)
「仁川の同胞、そしてすべての労働者兄弟姉妹よ! 三共精米所で戦う数百名の女工たちの姿を見よ。彼女たちは極寒に凍え、粉塵に肺を病みながらも、男女平等の権利と生存権を求めて銃剣の前に立ちはだかっている。彼女たちの飢えは、我々朝鮮人全体の飢えである。三共のスト破りとして工場に入る者は、民族の裏切り者である。全仁川の力で、この不義の資本を包囲せよ!」
※このビラにより、それまで単一の工場トラブルだと思っていた仁川市民やマッチ工場の女工たちが激しく呼応し、たちまち食料や資金のカンパが三共の争議団に寄せられた。

【1930年後半:治安維持法による弾圧(第三波のビラ)】
 事態を恐れた朝鮮総督府が「治安維持法」を適用し、仁川警察署が夜襲をかけて幹部を大量検挙した1930年後半、地下から発行されたビラ。

• 弾圧後の抗日・反帝の檄文
「仲間が捕らえられた。だが、我々の魂は捕らえられない! 日本人資本家は、自らの不当な搾取を隠すために、総督府の警察犬を使って我々を縛り首にしようとしている。我々の敵が誰であるかは明白だ。この戦いは、単なる1銭、2銭の賃上げの戦いではない。我々から土地を奪い、労働を奪い、尊厳を奪う日本帝国主義そのものへの戦いだ。最後の一人が倒れるまで、団結して抵抗せよ!」

4、警察の弾圧(1930年末~1931年前半)
 朝鮮総督府警察は、三共精米所争議を「単なる労使紛争ではなく、思想的背景を持った体制不穏運動」とみなした。所轄の仁川警察署は、即座に牙を剥き介入してきた。それまでの労働運動に対する「業務妨害」や「暴力行為」といった容疑にとどまらず、今回は国家体制を揺るがす罪として、極めて重い「治安維持法」が適用され、これにより、ストライキを裏で手引したとされる幹部や、現場で強く抵抗した争議団指導部らが次々と電撃的に逮捕・検挙された。

【長期におよぶ法廷闘争】1930年末〜1931年前半
 逮捕された幹部らの裁判が京城(ソウル)や仁川の法廷で進められ、警察は「共産主義者による暴動陰謀」として重罪に処そうとしたが、残された労働者や後援会は「法廷闘争」を展開した。
 法廷の周りには毎回多くの労働者や家族が詰めかけ、被告(拘束された労働者)が法廷内で「我々の要求は正当だ!」と叫ぶたびに、傍聴席から歓声が上がるなど、裁判所そのものが闘争の場と化した。

【13名の出監(釈放)報道】1931年5月
 そして、足かけ2年に及ぶ執念深い粘り腰の戦いの末、1931年5月、ついに13名の労働者が釈放(出監)されると報道された。仁川の労働者たちは、出監する13名をただ出迎えるだけでなく、彼らを「不屈の英雄」として大々的に歓迎する集会を企画し、総督府の弾圧が労働者の団結を挫くことはできなかったという事実を、ビラや口コミを通じて全朝鮮に知らしめた。

5、 団結とたたかいの波及

• 団結の維持
 国家権力(警察・総督府)による治安維持法の適用という、凄まじい弾圧によって物理的には指導部が壊滅させられ、100%すべての要求が認められるような完全勝利には至らなかった。しかし、労働者側は1年以上にも及ぶ団結を崩さず、1931年5月に13名の仲間が釈放されるまで闘志を維持し続けた。

•不屈の精神
 この三共精米所の闘いは、「女性や未熟練の労働者であっても、人権などの要求を掲げて国家権力(治安維持法)と対等に渡り合える」という圧倒的な前例を残した。この不屈の精神は仁川中の苦しめられている多くの労働者に大きな勇気を与え、他の工場での闘争へと波及していった。

•仁川で続くストライキ
 仁川の精米所労働者の争議に勇気づけられた仁川の労働者は呼応し、1930年末から1931年にかけて日本人経営のマッチ工場「朝鮮マッチ株式会社」(「大同マッチ株式会社」の子会社)などの労働者数百名が相次いでストライキに立ち上がった。マッチ工場で働く労働者の大半は、周辺農村から流入した朝鮮人の少女や女性であった。彼女たちは換気の悪い劣悪な環境のなか、マッチに使われる黄燐などの有害物質を日常的に吸い込みながら、1日14〜15時間の猛烈な長時間労働を強いられていた。その上賃金は日本人労働者の3分の1以下という極限の低さだった。ストライキに決起した仁川のマッチ工場労働者は、精米所の要求を引き継ぎ、賃上げだけでなく「有害不潔な作業環境の改善」「罰金制度の廃止」「生理休暇・授乳時間の確保」など、女性の人権を守る近代的・先進的な要求が掲げられた。
 また、1930年代中盤に仁川港全体を揺るがす「丸星運送」などの港湾荷役労働者による大規模な連立(ゼネラル)ストライキへとバトンが繋がっていった。

(以上)

 

朝鮮仁川港・精米業労働者のストライキ 1930年の労働争議(読書メモ)

朝鮮仁川港・精米業労働者のストライキ
1930年の労働争議(読書メモ)

参照・「日本労働年鑑第12集/1931年版」大原社研編
  ・協調会史料
  ・『日本統治下の朝鮮』山辺健太郎著
  ・AI 

1、1930年の朝鮮仁川港・精米業労働者のストライキ

 日本統治下の朝鮮において、当時、仁川(インチョン)港は朝鮮半島で生産された米を日本本土へ送り出す最重要の「収奪港」であった。この植民地経済の心臓部であった仁川港で、労働条件の改善と民族差別撤廃を求める大規模な階級的・抗日民衆闘争が巻き起こった。特に1930年1月に発生した日本人資本家経営の「加藤精米所」と、同年5月の「三共精米所」におけるストライキが、その代表的な闘争として知られている。

(仁川港の精米所)
 当時の朝鮮総督府は、日本国内の米不足を補うために朝鮮で「産米増殖計画」を推進していた。集荷された米を日本へ移出するため、仁川港周辺には「加藤精米所」や「三共精米所」をはじめとする、日本人資本家が経営する近代的な巨大精米工場が多数建設された。1929年時点で、仁川にある全工場の約21%が精米所であり、そこで働く労働者は仁川全体の朝鮮人労働者の約71%(2,800人超)を占めるなど、精米業は地域最大の主力産業であった。

(過酷な労働環境と民族差別)
 精米工場で働く朝鮮人労働者は、わずかな日当で未明から深夜まで粉塵と騒音の中に酷使されていた。労働者の多くは、劣悪な条件のもとで非正規雇用された「女性労働者(女工)」や「幼年労働者」であった。彼らの賃金は日本人労働者の半分以下に抑えられており、日常的な暴言や殴打が横行するなど、露骨な民族差別の下に置かれていた。

2、加藤精米所300人のストライキ

(1) 背景
 加藤精米所(山口県出身の「精米王」加藤平太郎が経営)は、日産3,200石を誇る仁川最大の精米工場だった。しかし、その実態は「産米増殖計画」のもとで朝鮮の米を日本へ移出するための植民地収奪の拠点であり、働く朝鮮人労働者は劣悪な環境と民族差別に苦しんでいた。特に、米から石や籾殻を取り除く選米女工(ソンミヨゴン)らは、極寒の工場内で朝から晩まで酷使され、日本人労働者の半分以下の低賃金に据え置かれていた。

(不当解雇)
 1930年1月12日、同精米所の労働者であり、同時に「仁川青年同盟」などの社会運動組織で活動していた金応泰(キム・ウンテ)が、その思想や活動を理由に一方的に解雇された。この仲間の不当解雇に激怒した300名以上の朝鮮人精米職工が、仁川労働総同盟の指導のもと、一斉に金応泰の解雇撤回を要求するストライキに突入した。

《元山(ウォンサン)ゼネスト時、スト破りボイコット闘争を闘った仁川労働総同盟》
 この精米所闘争を指導した仁川労働総同盟は、1924年に結成され、1926年には精米職工や鉄工などの職能別組合を傘下に収めた「仁川労働連盟」へと発展した組織である。前年の1929年に起きた朝鮮労働運動史最大の「元山ゼネスト」の際、仁川労働連盟は物心両面で積極的な支援を行った。とりわけ、元山の資本家側がスト破りの傭員として仁川から200人の港湾労働者を動員しようとした際、仁川労働総同盟は「スト破りとしての赴任を拒絶する」と宣言。見事なボイコット闘争を展開してこれを阻止し、闘う労働者の強い連帯を全国に示した。

(1923年のストライキの経験)
  同精米所では1923年にも、経営者側が賃金の安い中国系労働者を流入させて朝鮮人労働者の賃金を切り下げようとしたため、数百人規模のストライキが起きた歴史的背景もあった。

(2)ストライキ
 1930年1月~14日
 金応泰の不当解雇に激怒した約300名が、「仁川労働総同盟」の指導のもとで以下の要求を掲げ、一斉にストライキに突入し、工場の操業が完全にストップした。

要求内容
1. 金応泰の無条件復職
2. 朝鮮人労働者に対する民族差別の撤廃および日常的な暴言・殴打の禁止
3. 男女同一労働同一賃金の実施
4. 女性労働者のための授乳時間の確保
5. 労働環境の改善(粉塵・騒音対策、暖房の設置など)

(地域ビラ)
 争議団は工場に立て籠りながら、深夜、仁川中の全労働者に向けたビラを市内中でひそかに配布した。ビラには、
「我々の同胞である金応泰の不当解雇を撤回せよ」
「日本人資本家による朝鮮人労働者への虐待と民族差別を根絶せよ」
「生存権をかけて団結し、最期まで戦い抜こう」
といったメッセージが盛り込まれていた。

(3)弾圧と抵抗
 ストライキの勃発後、朝鮮総督府と警察はすぐさま介入し、主導者である金応泰らを「思想団体活動」および「ストライキ扇動」の容疑で逮捕した。しかし、労働者側は激しい弾圧にも屈せず、具体的な処遇改善と民族差別の撤廃を掲げて抵抗を続けた。闘争は最終的に、労働者が元の職場に復帰する権利を認めさせる「自由復業」という形を勝ち取って収束を迎えた。

• 「自由復業」の持つ意味
 これは女性労働者たちが、資本家側(工場側)に無条件降伏したわけではない。経営者側が狙っていた「ストライキ参加者を全員クビにして、別の未熟練労働者や他所から連れてきた労働者を身代わりに雇う(スト破り)」という目論見を労働者側の団結によって粉砕し、「ストライキに参加した労働者が、誰一人として不利益処分(解雇など)を受けることなく、元の職場にそのまま戻る(復帰する)権利」を資本家に認めさせた立派な成果だった。

3、引き継がれるたたかい
 指導者が逮捕されても、現場の女性労働者や未熟練労働者が最後まで団結を維持して資本家・警察を揺るがし、ついに職場を守り抜いた。この不屈の経験が、直後の同年5月「三共精米所ストライキ」や、その後の仁川港全体の埠頭荷役労働者らによる大規模な連帯ストライキへと引き継がれていった。

(以上)

次回予定「朝鮮仁川の三共精米所ストライキ 1930年の労働争議(読書メモ)」

朝鮮紡織釜山工場3千名ストライキ 1930年の労働争議(読書メモ)

朝鮮紡績労働者(戦前)

朝鮮紡織釜山工場3千名ストライキ
1930年の労働争議(読書メモ)
写真・「朝鮮紡績労働者(戦前)」
参照・「日本労働年鑑第12集/1931年版」大原社研編
  ・協調会史料
  ・「日本統治下の朝鮮」山辺健太郎著
     ・朝鮮総督府発行『高等警察報』『朝鮮治安状況』
  
 1930年1月に発生した日本資本の朝鮮紡織釜山工場ストライキ争議は、日本統治時代の朝鮮における大きな労働争議の一つである。世界恐慌の荒波と植民地における過酷な労働環境が重なる中、朝鮮紡織釜山工場労働者の大部分を占める女性たちが先頭に立ち、約3,000人が団結。強大な朝鮮総督府に守られた日本資本の経営者に対して、真っ向から闘いに立ち上がった。

1.朝鮮紡織株式会社(朝紡)とは
 1917年、日本資本(「中外コンツェルン(中外産業系)」)が、朝鮮の釜山に大規模な紡織工場を構える朝鮮紡織株式会社を設立した。同コンツェルンは朝鮮域内で、ほかにも「朝鮮火薬製造」や「中外鉱業」などを広く経営していた。なかでも朝鮮紡織株式会社釜山工場は、朝鮮半島における最大規模の近代的な綿紡績工場であり、数千人の労働者を抱える巨大企業であった。 

・争議の契機
 1929年秋に始まった世界恐慌の波を受け、会社側は一方的に「一律10%の賃金引き下げ」を通告。さらに強圧的な労働強化や合理化政策を急激に進めたことが、労働者たちの日頃の怒りを爆発させる直接の引き金となった。

2.朝鮮紡織釜山工場における労働環境

・法規制のない長時間労働
 当時、日本国内で施行されていた「工場法」は、植民地である朝鮮や台湾には適用されなかった。そのため、1929年に日本国内で実施された女性や年少労働者の「深夜労働禁止」や「労働時間規制」が導入されないまま、1日11〜12時間、時には14〜15時間におよぶ過酷な長時間労働が常態化していた。昼夜2交代制が敷かれ、深夜労働も強制されていた。さらに、機械が破損すれば罰金を科され、業務中に負傷や病気になっても治療費すら支給されないという、限界まで肉体的負担を強いる環境であった。

・「監禁」に近い寄宿舎生活
 遠方の農村から集められた女性労働者たちは、工場敷地内の寄宿舎に強制的に住まわされていた。食事の質は極めて低く、衛生状態も最悪であった。門限や私生活は厳しく制限され、外部との連絡や自由な外出は原則として禁止。実質的に「逃亡を防ぐための監禁施設」として機能していた。

・強制的な「天引き貯金」
 支払われる僅かな給与からも、食費や寄宿舎費の名目で多額の費用が差し引かれた。さらに、逃亡防止の担保として「社内積立貯金」の名目で強制的に天引きが行われていたため、労働者の手元に残る現金はごく僅かであった。

3.深刻な民族差別

・工場における日常的な差別や暴力
 当時、朝鮮紡織株式会社で働く日本人社員は、主に「監督官」「事務職」「技術指導員」といった、朝鮮人労働者を管理・監督する立場に就いていた。現場では、彼らによる朝鮮人労働者への鉄拳制裁、侮辱的な暴言、ハラスメントが日常的に横行していた。また、同じ作業をしていても、朝鮮人労働者の賃金は日本人労働者の半分以下であった。さらに、日本人には劣悪な寄宿舎ではなく社宅が用意されるなど、あらゆる面で明確な差別が存在していた。
 朝鮮紡織のストライキが勃発した際、日本人社員の多くは会社側に立ち、率先してストライキ破りを担って争議団と敵対した。

 

4.女性労働者と釜山労働総同盟のオルグ

・女性労働者が主体の争議
 ストライキに決起した朝鮮人労働者は3,000人以上にのぼり、そのうち約8割(2,300〜2,500人)を女性労働者が占めていた。

・地下での組織化闘争
 地域組織である「釜山労働総同盟」が、かなり以前から朝鮮紡織工場内における労働組合の組織化とストライキ闘争の準備のためにオルグ(組織化活動)を展開していたが、その組織化運動の中心を担ったのは工場の女性労働者たち自身であった。

5.   ビラ(1930年1月9日)

① 日本人監督官による「暴力・性的侮辱」への激しい告発
「釜山の姉妹たちよ、我々は奴隷ではない! 日本人の監督官どもは、我々が少しでも疲れて手を止めれば、家畜のように殴り、言葉にできない侮辱(暴言や差別)を投げつける。同じ人間として、この屈辱をいつまで耐え忍ばねばならないのか!」

「日本人の監督官どもは、朝鮮人を『牛馬』のように扱い、少しでも作業の手が遅れれば容赦なくビンタを浴びせ、足蹴にする。それだけではない。夜間の見回りと称して、寄宿舎の若い姉妹たちの部屋に無断で押し入り、言葉にするのも汚らわしい暴言や、身体を触るなどの卑劣な侮辱を繰り返している。この屈辱の涙を、我々はいつまで流し続けねばならないのか!」
スローガン
「朝鮮人労働者に対する一切の暴言・暴力を根絶せよ!」
「人格を無視した侮辱的な処遇を即刻廃止せよ!」

 ②飢えと戦う「奴隷的労働・賃金差別」への抗議
「会社は東洋一の生産量を誇りながら、我々にはまともな食事すら与えず、虫の入ったような飯を食わせている。朝から深夜まで働かされ、手を傷つければ慰謝料(補償)もなく放り出される。さらに不当な罰金制で、ただでさえ雀の涙ほどの賃金をむしり取っている!」

「機械の調子が悪くて糸が一本切れただけで、検査員はすべて我々朝鮮人のせいにし、雀の涙ほどの賃金から『不良品罰金』として容赦なくむしり取る。結果、1ヶ月死ぬ気で働いても、手元に残るのは日本人の半分にも満たない数円の小銭だけだ。怪我をしても補償はなく、使い捨てにされる。今こそこの奴隷の鎖を断ち切る時だ!」
スローガン
「最低賃金を1日80銭に引き上げよ!」
「過酷な12時間労働を拒否し、1日8時間労働制を実施せよ!」
「不当な罰金制度および解雇制度を完全に撤廃せよ!」

③「光州学生運動」との連帯・抗日への呼びかけ
「いま、全国の学生や青年たちが日本の圧制に立ち向かって命がけで戦っている。我々朝紡の2,000人の労働者も、この民族の闘いから目を背けてはならない。資本家と警察の脅しに屈することなく、今こそ総罷業(ゼネスト)の火を燃え上がらせよ!」
スローガン
「朝鮮人と日本人のあらゆる差別待遇を撤廃せよ!」
「全工場の同胞よ、団結して総罷業(ゼネスト)を勝ち取ろう!」

6.ストライキの勃発と要求
 1930年1月10日、前年末に会社側が一方的に通告してきた「賃金の10%引き下げ」に激怒した約3,000人の労働者が、一斉にストライキに立ち上がった。彼らが掲げた主な要求項目は以下の通りである。

【主な要求項目】
1. 賃金引き下げの絶対反対(一方的な減給通告の撤回)
2. 最低賃金制度の導入(日給80銭の補償)
3. 1日8時間労働制の導入(過酷な労働時間の短縮)
4. 民族差別待遇の撤廃(日本人労働者との同一労働・同一賃金)
5. 年少工の夜間労働禁止
6. 不当な罰金制度の廃止
7. 業務上の負傷者への見舞金(休業補償)の支給
8. 待遇・環境の改善(寄宿舎の食事改善など)
9. 寄宿舎における人権蹂躙(監禁行為)の停止と外出の自由の確保
10. 暴力・暴言を振るう日本人管理職の排除および監督官の更迭
11. 争議団(ストライキ参加者)の解雇絶対反対

7.命がけの抵抗闘争

・「籠城闘争」と寄宿舎の要塞化
 労働者たちはストライキ突入と同時に寄宿舎に立てこもり、出入り口をバリケードで封鎖した。警察や会社側によって個別に引きずり出され、分断されるのを防ぐため、集団で固まって生活空間を「要塞」へと変えて対抗した。

・歌とシュプレヒコール
 狭い部屋に閉じ込められ、いつ弾圧が来るか分からない恐怖に打ち勝つため、彼女たちは労働歌や抵抗の歌を連日繰り返し大合唱した。また、敷地外から様子をうかがう市民や監視を強める警察に向かって、窓から一斉に要求を叫ぶなど、大声を使った抵抗を続けた。

・地域社会との連携
 外部との連絡や情報交換を行うため、警察の目を盗んで寄宿舎の隙間からメッセージを書いたメモを投げたり、夜間に決死の覚悟で脱出して釜山労働総同盟の幹部らと接触を図ったりした。外部の支援者からも、彼女たちを支えるために差し入れやビラ配りが行われた。

・断食闘争と座り込み
 会社側が要求を拒否し、警察が圧迫を強める中、彼女たちは食事を拒否する「断食闘争」や、一歩も動かない「座り込み闘争」を敢行。自らの命を人質にするような命がけの抗議行動で、徹底抗戦の構えを崩さなかった。

8.労働者たちの苦闘
 華々しい抵抗の裏で、10代〜20代の若者が中心であった女性労働者たちは、極限の精神状態の中で多くの葛藤に引き裂かれていた。

・警察の暴力への恐怖
 武装した日本人警察官や朝鮮人巡査が寄宿舎を包囲し、いつ突入してくるか分からないという恐怖が常に付きまとった。当時、逮捕されれば激しい拷問を受けることは公然の事実であり、とりわけ若い女性労働者にとって、男性警察官から受ける肉体的暴力や、精神的・性的な侮辱への恐怖は計り知れないものであった。

・女性たちの動揺を狙う会社
 会社側は「今なら罪を問わないから職場に戻れ」「戻らない者は即刻解雇する」といった揺さぶりをかけ、争議団の切り崩しを図った。この弾圧に動揺して脱落する仲間が出るたびに、彼女たちは「自分も降伏すべきか」「いや、仲間を裏切るわけにはいかない」という激しい心理的葛藤に苦しめられた。

・「寒さと飢え」とのたたかい
 ストライキが長期化すると、会社側は嫌がらせとして寄宿舎への食糧供給を遮断し、電気や水道を止めるなどの強硬な「兵糧攻め」を敢行した。暗闇と寒さ、そして猛烈な飢えの中で、彼女たちは「このままでは餓死してしまうのではないか」という生存への恐怖とも戦わねばならなかった。

・故郷の家族への想い
 彼女たちの多くは、農村の貧しい家庭を支えるために釜山へ出稼ぎに来ていた。ストライキ期間中は当然ながら賃金が支払われないため、「自分が闘争を続けるせいで、田舎の親や兄弟が飢えてしまうのではないか」という家族に対する想いが、彼女たちの心を激しく揺さぶった。

9.釜山労働総同盟(釜山労総)の役割
 釜山労働総同盟は、工場内部の労働者と地域社会、さらには民族運動とを結びつける「司令塔」であり、「最大の支援組織」としての役割を果たした。

・争議の指導と戦略の構築
 ストライキが勃発すると、釜山労総の幹部たちが実質的な指導部(罷業対策委員会など)に参画。会社側への要求書の作成、交渉の進め方、ストライキを維持するための具体的な行動方針を指導した。

・世論の喚起と「民族的抵抗運動」
 釜山労総は、『東亜日報』や『朝鮮日報』などの民族系メディアを通じて、朝鮮紡織の悲惨な労働実態や会社側の不当性を告発し、全朝鮮的な関心と支持を集めた。これにより、日本の巨大資本に対して現地の朝鮮人労働者が団結して立ち向かう構図が明確となり、一工場の労働条件改善という枠を超え、日本の植民地支配に対する「朝鮮民族の抵抗運動」としての意義を全土へ発信した。

・「兵糧攻め」への対抗と後方支援
 会社側による兵糧攻め(飢えによる屈服工作)に対抗するため、釜山労総は他の加盟組合、釜山地域の住民、商人、知識人らから寄付金(罷業義捐金)や食糧を必死に集めて労働者に分配した。炊き出しの実施や住居の確保など、物心両面から労働者たちの持久戦を支えた。

10.会社側と朝鮮総督府・警察による強硬弾圧
 資本(会社)と国家権力(警察)は完全に一体となり、労働者に対して極めて容赦のない弾圧を加えた。

・朝鮮総督府・警察
 朝鮮総督府警察は、このストライキを単なる労使紛争ではなく、「反日・独立運動」につながる危険な思想運動(社会主義運動)と見なした。多数の武装警察官を工場や寄宿舎へ投入して包囲網を敷き、労働者たちの集会を力ずくで強制解散させた。この過程で、労働組合の幹部や背後で支援していた釜山労働総同盟の活動家など地域全体で百数十名が検挙・逮捕された。

・会社側の交渉全面拒否と切り崩し
 会社側は労働者側の要求を一切認めず、交渉を全面的に拒否した。さらにストライキが長引くと、闘争を先導していた幹部や活動家を「首謀者」として即座に解雇。職場復帰を条件とした個別交渉を進めるなど、労働者間の分断と組織の切り崩しを徹底した。

11.ストライキの終結

・争議団の解散
 1930年1月24日、指導部の多くが逮捕され、警察や会社側からの激しい圧迫を受ける中で、これ以上のストライキ継続は困難と判断した争議団は解散を余儀なくされた。寄宿舎に籠城していた女性労働者たちは、武装警官隊の監視のもとで全員が強制的に就業へ駆り出された。

・会社側の対応と影響
 この争議は労働者側の「敗北」に終わったものの、世論の非難も浴びた会社側は、その後の労務管理において一定の配慮や若干の待遇改善を強いられる結果となった。

12.各地の労働運動への波及
 このストライキは、1929年の「元山(ウォンサン)ゼネスト」以降、朝鮮全土に波及した反帝国主義・反植民地主義の昂揚の中で発生したものであった。この朝紡争議の熱気は、同年の、そして翌年へと他地域・他業種の闘争へとさらに波及していった。

・7月の朝鮮窒素肥料工場争議(でっち上げ弾圧事件)
・8月の平壌(ピョンヤン)ゴム工場のゼネスト
など各地の農民運動や反日抵抗運動への連動

13.感想
 私は、1930年朝鮮のこの闘いの資料を読むにつれ、「かつての大久保製壜の経営者は、戦前朝鮮侵略時代の日本資本の悪虐非道をそのまま真似たのではないか」と強い衝撃を受けた。過酷な長時間労働・差別・暴力・虐待・酷使、「社内貯金」とその上天引きされ手取り数千円の賃金、貧しい食事、監禁同様の寄宿舎、交替勤務と深夜労働の疲労、その上残酷・卑劣な組合攻撃といじめ、解雇、弾圧、資本の手先警察・・・。あまりにもそっくりなのだ。nagasaki1218.hatenablog.com

 

 資本家階級・支配者階級の本性はこんなにも変わらないものなのだ。決して昔のことではない。時代が変わっても、国が違っても彼ら資本家階級に絶対幻想は持つまい。私達の側も朝紡争議や朝鮮労働者階級の先輩労働者から学び、労働者自身が立ち上がり、彼女たちのように勇気をふるい、そして万国の労働者と団結して共に闘おう。

 1929年の「元山ゼネスト」、1930年の「朝紡争議」をしっかりと記憶したい。

(以上)

戦前朝鮮の学生、同盟休校(ストライキ)の歴史

『朝鮮の群衆(朝鮮総督府官房文書課)』表紙

戦前朝鮮の学生、同盟休校(ストライキ)の歴史
写真・『朝鮮の群衆(朝鮮総督府官房文書課)』表紙
参照・『朝鮮に於ける同盟休校の考察』朝鮮総督府1929年
  ・『朝鮮の群衆』朝鮮総督府官房文書課(1925年)国立公文書館アジア歴史資料センタ

 1910年の韓国併合以降、1919年の三・一独立運動を境に、全国の学校で同盟休校(ストライキ)が頻発するようになった。戦前の朝鮮における同盟休校は、単なる「生徒の不登校・ストライキ」にとどまらず、日本帝国主義の植民地支配に対する学生たちの民族独立闘争、あるいは民族抵抗闘争としての側面を持っていた。

1. 1919年から1925年末までの同盟休校は70件

 1919年から1925年末までに、朝鮮の学生が決起した同盟休校は70件に上る。そのうち、同盟休校の原因を作り、生徒たちから排斥や罷免・「自決」・辞職を要求された日本人校長および教員は24人(校長11人、教員13人)に及んだ。この数字からは、日本人教員や校長による生徒への民族差別や暴力がいかに頻発していたかがうかがえる。

2. 日本人校長・教員の民族差別や暴力に抗した同盟休校(1919年〜1925年)
 (事例紹介『朝鮮の群衆』朝鮮総督府官房文書課より抜粋)

①
 日本人体操教師が教練の際、1人の生徒が朝鮮語で号令をかけたことに対し、外国人校長の前でその生徒を厳しく叱責した。これに対し上級生らは、「些細(ささい)な言葉遣いの誤りに対し、我々を敵国人のように扱い、常に猜疑(さいぎ)心を持って接するような乱暴な日本人が教鞭を執る限り、登校はしない」と校長に申し出、同盟休校に踏み切った。
(1919年〈大正8年〉10月14日 京●高等普通学校 2・3・4年生71名決起)

②
 小学校の運動会の日、日本人の大工が生徒を殴打したことから、居合わせた朝鮮人青年5、6人と日本人3人の間で騒動が起きた。翌日、普通学校の生徒と大工との間でも揉め事があり、大工が生徒1、2名を殴打した。生徒らは保護者(父兄)とともに日本人の不法行為を追及した。校長は不在であったが、職員会議において「本件は学校と生徒を侮辱したものであるため、当該内地人(日本人)は謝罪し、大工は警察処分に付すべきである」と決議した。
 しかし、日本人側の代表である学校組合管理者は「これは個人間の問題であり、内地人全体の問題ではない」として謝罪や処分を拒否した。そこで朝鮮人教員6名は、この件を道(地方行政単位)に報告して処分を求める申請を行った。しかし道が問題をうやむやにしようとしたため、朝鮮人教員6名は即座に辞職願を提出した。これに対し生徒たちも抗議行動を起こし、7月15日にまず6年生がストライキに入り、続いて5・4・3年生も同盟休校(盟休)に踏み切った。
(1922年〈大正11年〉7月13日 公立普通学校 6・5・4・3年生178名決起)

③
 新校長に、嘱託の日本人教員が任命されたことに対し、同校の朝鮮人訓導(正教員)4名が「朝鮮人差別も甚だしい人事である」と激憤し、ストライキを敢行した。生徒や保護者らもこれに同調し、生徒約50名も同盟休校に入った。
(1922年〈大正11年〉7月12日 平北 公立普通学校 教員4名・生徒約50名決起)

④
 日本人の英語教員が1人の生徒を殴打した。これに対し、3年生、2年生、1年生が相次いで陳述書を提出し、同盟休校に入った。
【陳述書】
一、教員は生徒を殴打しないこと。
二、殴打した教員は生徒の前で謝罪すること。
三、教員は生徒に対して親切に接すること。
(1923年〈大正12年〉1月26日 全南 高等普通学校 3・2・1年生250名決起)

⑤
 ある日本人訓導(正教員)は生徒への温情に欠け、日頃から暴力に訴えていた。4月16日にも1人の生徒に対して過酷な懲戒(体罰)を加えたため、憤慨した2・3年生が「このような教師から教えを受けることはできない」として、一斉に同盟休校に踏み切った。
(1923年〈大正12年〉4月17日 全南 公立普通学校)

⑥
 京城(ソウル)への修学旅行中、列車内で日本人の酔客が朝鮮人の女性教員に対して執拗に侮辱的な行為を働いた。これを目撃した5・6年生の生徒たちは激怒して酔客に抗議し、ついに乱闘騒ぎへと発展した。同行していた日本人訓導(正教員)が生徒らを叱責し、一度はその場を鎮静させた。
  列車が松汀里(ソンジョンニ)駅に到着すると、酔客は下車した。生徒らはプラットホームまで酔客を追いかけて取り囲み、口々に謝罪を要求した。しかし、ここでも日本人訓導が生徒側を責めて殴打し、行動を制止したばかりか、逆に日本人の酔客に対して謝罪した。
  学校に戻った生徒たちは、「日本人訓導が酔客の非を責めず、生徒たちだけを制止したことは到底容認できない」として次の申し入れを行い、同盟休校を決行した。

【申し入れ事項】
一、日本人が朝鮮人女性教員に無体な行為を働き、生徒はそれを防衛した。それにもかかわらず、日本人訓導が理由も聞かずに生徒のみを責めて殴打したことは、生徒を愛する教師の振る舞いではない。その上、非のある日本人に謝罪したことは朝鮮人への侮辱である。このような愛(慈悲心)がなく、民族差別を行う人物から授業を受けることはできない。
二、当該訓導は我々を朝鮮人として侮り、「お前、貴様、馬鹿、畜生」などとあらゆる悪罵を投げつけ、些細なことで殴打する。このような教師には質問すらできず、到底愉快に修学することなどできない。
(1923年〈大正12年〉4月17日 全南 公立普通学校 4・5・6年生全員決起)

⑦
 厳格かつ不親切な同校の日本人訓導(正教員)は、日頃から生徒に嫌われていた。ある時、この日本人訓導と日本人の巡査が次のような会話を交わし、それを耳にした同校の卒業生らが在校生に伝えた。

【日本人巡査の発言】
「朝鮮人のような者には、教育を施すなど余計な手数をかけるよりも、むしろ北海道のアイヌのように圧迫を加えて滅亡させてしまうに越したことはない」
【日本人訓導(正教員)の発言】
「自分は4、5年生を受け持っているが、どれもこれも馬鹿者ばかりだから、熱心に教える必要はない」

 これを知った生徒たちは全員で協議し、「当該訓導の授業は断じて拒否する。また、警察に赴いて巡査を「間責(かんせき)」すべきである」と決議した。生徒らは校長に対して日本人訓導の更迭を要求し、4・5年生の73名がストライキを断行した。
(1923年〈大正12年〉4月30日 江原 公立普通学校 4・5年生73名決起)

⑧
 メーデーを記念し、また日本など国内外の同胞からのメーデーおよび独立運動への呼びかけに応えるため、朝鮮人学生らも「朝鮮独立万歳」を唱える示威行動(デモ)を計画した。5月1日、登校時の始業準備の鐘を合図に、全校生徒が一斉に「万歳」を叫び、そのまま授業を放棄してメーデーのデモに合流するため全員で退校した。
(1923年〈大正12年〉5月1日 全南 公立普通学校 生徒300名決起)

⑨
 ある日本人教員は、みだりに生徒を殴打し、人格や学識に欠けるだけでなく、野卑(やひ)な言葉遣いをするため、日頃から生徒に嫌われていた。5月9日、この教員が再び1人の生徒を激しく殴打した。これに激憤した生徒たち80余名が、当該教員の排斥を要求してストライキを敢行した。
(1923年〈大正12年〉5月10日 黄海 公立普通学校 5・6年生80余名決起)

⑩
 日本人校長の様々な言動から、朝鮮人の児童を愛護する姿勢が著しく欠如していると判断し、全校生徒が同盟休校に入った。
(1925年〈大正14年〉5月19日 江原 公立普通学校 全校生徒決起)

⑪
 野球の試合で優勝した生徒らは、喜びのあまり優勝旗を掲げて市中を練り歩こうとした。しかし校長(外国人)がこれに中止を命令した。生徒らはその命令に従わず、同夜、凱歌を高唱しながら市中を練り歩いた。これに対し校長が代表生徒3名を停学処分としたため、憤慨した高等課の生徒67名が同盟休校(盟休)に入った。
(1923年〈大正12年〉5月30日 慶南 私立普通学校 高等課生67名決起)

⑫
 日本人校長が不親切である上、朝鮮人に対する差別的言動が著しいとして、生徒らが憤慨して同盟休校を決行した。
(1923年〈大正12年〉5月26日 黄海 公立普通学校 全校生徒130余名決起)

⑬
 管理運営を行う米国人側の利益のみを念頭に置き、同胞である朝鮮人生徒に対して冷淡な態度をとる監督(教職員・管理者)の排斥を陳情し、150名の学生が同盟休校に入った。
(1923年〈大正12年〉6月22日 開城 私立高等普通学校 150名決起)

⑭
 日本人教員が生徒を殴打したことに2年生が憤慨し、「当該教員は生徒の面前で謝罪すべきである。それまでは同教員の授業は受けない」として同盟休校に踏み切った。3年生もこれに同調し、同教員の担当授業の際に一斉に教室を退出して同盟休校に入った。その後、6月29日および7月3日にも、同教員の授業時間になると生徒らは一斉に教室を退出した。
(1923年〈大正12年〉6月27日 慶北 高等普通学校 3年生93名・2年生全員決起)

⑮
 体操教練を担当する日本人教員が2、3名の生徒を殴打した。これに憤慨した生徒たちは、同教員の排斥運動を開始した。この教員はもともと生徒に対して不親切であり、質問をしても不明瞭な回答しかせず、再質問をすると激昂して日常的に生徒を殴打していた。生徒らはこの日本人教員の更迭を要求し、5・6年生の70名が一斉に同盟休校に入った。
(1924年〈大正13年〉5月8日 全北 公立普通学校 5・6年生70名決起)

⑯
 6月16日、学校の野球部と日本人クラブとの野球試合において衝突(乱闘騒ぎなど)が発生した。臨場した警察は朝鮮人生徒4名を逮捕した。生徒たちは、4名の釈放を警察に要求するよう学校側に陳情し、これが受け入れられない場合は同盟休校に突入すると迫った。
 6月18日に4名は釈放されたものの、生徒たちは「今回の事態における野球部長と校長の対応はあまりにも日本人側に偏っており不公平である」と主張し、授業を放棄した。これに対し校長が全生徒に無期停学を命じたため、同盟休校はさらに長期化することとなった。
(1924年〈大正13年〉6月16日 全南 高等普通学校 全校生徒決起)

⑰
 日本人の教師2名の排斥を求め、生徒らが同盟休校に入った。
(1924年〈大正13年〉6月27日 京● 私立高等普通学校 5・4・3・2年生決起)

⑱
 日本人の校長および教師が生徒に対し、不親切かつ言行不一致であり、また不謹慎であるとして、生徒たちは校長に対して「自決」勧告書」を提出し、同盟休校に踏み切った。生徒らが提示した理由は以下の通りである。
イ、生徒を「馬鹿、貴様、お前」などと呼んで侮辱すること。
ロ、口先では「内鮮融和」を唱えながら、実際には朝鮮人を侮蔑していること。
ハ、生徒に対して「お前の姉妹をよこせ」「お前の妻を貸せ」、あるいは女子生徒に対して「大きくなったら●●●●をしたい」などと聞くに堪えない発言をしており、教師としての資格を欠いていること。これらの言動は新聞でも暴露されており、このような教師から教えを受けることはできないとして、校長に自ら職を辞するよう強く迫った。
(1924年〈大正13年〉6月19日 全南 公立普通学校 5・6年生192名決起)

⑲
 日本人の校長が1人の生徒を殴打した。22名の生徒たちは日頃から当該校長に対して憤慨していたため、これを契機に同盟休校を決行した。
(1925年〈大正14年〉5月1日 黄海 公立普通学校 4年生22名決起)

3. 1925年から1930年にかけての同盟休校の推移

 1926年の「六・十万歳運動(純宗皇帝の崩御を契機とした学生主導の独立運動)」を一つの節目として、同盟休校は単なる学内の不満処理を求めるものから、組織的な社会運動・民族運動へと深化していった。

【同盟休校の発生件数】
• 1925年: 約50件
• 1926年: 83件(六・十万歳運動を機に急増)
• 1927年: 74件
• 1928年: 97件
• 1929年〜1930年: 100件以上(光州学生独立運動の影響により過去最高を記録)

4. 1929年:光州学生独立運動の勃発

 1929年11月3日、全羅南道の光州(クァンジュ)にて大規模な民族抵抗運動(光州学生独立運動)が勃発した。光州高等普通学校、光州農業学校、光州女子高等普通学校の生徒たちが一斉に同盟休校に入り、大規模な街頭デモを敢行。光州地域だけでも260人以上の学生が逮捕・投獄される事態となった。

5. 1930年:同盟休校の全国的な波及

 光州から始まったこの学生運動は、翌1930年にかけての数ヶ月間で全国へと波及した。最終的には全国194の学校、約5万4,000人もの学生が参加する、未曾有の大規模な同盟休校(ストライキ)闘争へと拡大していった。

以上

「鉄窓で呻(うめ)くほど苦しんでいる学友を救おう!」光州学生独立運動の朝鮮全国化(1930年)

「光州学生独立運動」の経過(1929~30)

光州学生独立運動の朝鮮全国化(1930年)

「光州学生独立記念館」のホームページより
 1929年11月3日、朝鮮光州で起きて全国に拡散した「光州学生独立運動」は、日本の帝国主義の支配に抵抗して起きた代表的な民族運動の中の一つで、その規模や影響、そして歴史的意義を考えると、3.1運動に匹敵する事件だった。
 
記念館のご紹介
御挨拶
光州学生独立運動記念館は、わが民族の尊い魂と崇高な精神が宿っている歴史の殿堂です。
日本帝国主義の統治の下で苦痛を受けたわが祖先たちの若い魂が、植民地政治に血を流しながら抗った歴史の痕跡を保存し、後代に民族の自主性と尊い独立の意志を教えることができる人生の現場です。
特に光州地域の独立精神と不義に抗した情緒を見せる良い事例になるだろうと思います。
当時には幼い学生たちに過ぎませんでしたが、彼らの精神の深いところに内在していた民族の誇りが表出した事件を今日継承することができるように、体系的に構成しました。光州学生独立運動記念館は、わが国の5千年の歴史の中で最も輝く学生運動の一ページが刻まれている場所で、多様な展示資料と歴史的に保存されている史料を土台に、日本と中国の歴史に対する歪曲行為に対抗し、民族の誇りを取り戻し、民主的な自主独立国としての地位を守るために努力しており、それに留まらず、わが国の真実の歴史を世界中に知らせる尖兵になりたいと思っています。
ありがとうございました。
(光州学生独立運動記念館)


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光州学生独立運動の朝鮮全国化(1930年)
参照・「光州学生独立記念館」公式ウェブサイト
  ・ 山辺健太郎著『日本統治下の朝鮮』

1. 「鉄窓で呻(うめ)くほど苦しんでいる学友を救おう!」光州学生独立運動の拡大

 光州での衝突と再決起

 1929年11月3日、日本人学生による朝鮮人女子学生への許しがたい侮蔑・差別行為を糾弾する朝鮮人男女学生の独立闘争・同盟休校決起は光州全域に広がった。これに対し朝鮮総督府当局は一斉検挙による弾圧を行った。多くの学生が逮捕され獄に繋がれた。
 これに憤慨した学生たちは、さらに同年11月12日、「鉄窓で呻(うめ)くほど苦しんでいる学友を救おう」と、光州刑務所に向かって大規模なデモを開始した。市民にアジビラを配布しながら激しく闘い、学生たちは「植民地奴隷教育撤廃!」などを掲げて起ち上がった。この闘いにより、学生260名が拘束された。
 光州学生独立運動のために裁判を受けたり、退学処分にされたりした学生たちは、その直後から青年運動、労働運動、農民運動に身を投じ、民族運動の各分野で奮闘を続けた。今日、光州学生独立運動が起きた11月3日は「学生の日」に定められ、韓国の国家記念日となっている。
―スローガン—
 生徒・大衆よ、起て! 我々のスローガンの下へ!
検挙された生徒らは我々の手で奪還しよう!
警察の校内進入は絶対反対!
言論・出版・集会・結社・示威の自由を獲得しよう!
植民地的奴隷教育制度を撤廃せよ!
社会科学研究の自由を獲得しよう!
全国学生代表者会議を開催せよ!

 1930年1月女子学生の決起

 1929年11月の光州における最初の衝突の際、男子学生たちが警察に暴力的に連行されるのを見た光州女子高普の生徒たちは激しく憤慨した。年が明けた1930年1月中旬、彼女たちは一斉に同盟休校を断行。校門を飛び出し、光州の街頭で「被圧迫民族の解放」を叫んでビラを撒き、デモを行った。
 光州の女子学生の決起に呼応し、京城(ソウル)でも梨花女子高普や淑明女子高普、槿明(きんめい)学校などの女子最高学府の生徒たちが次々と同盟休校やデモに立ち上がった。彼女たちは警察のサーベル(軍刀)に怯むことなく、街頭で数千枚のビラを撒くなど総力で闘った。この闘いにより、多くの女子学生が検挙・退学処分となった。

 2. 運動の全国化

 光州闘争の全土化

 光州で始まった独立運動は、年をまたいだ1930年1月から3月にかけて爆発的に全土へと広がった。京城(ソウル)では1930年1月中旬、京城内にあるほぼすべての公私立高普が一斉に同盟休校に入り、街頭での大規模な反日デモを敢行した。これにより京城の多くの学生が検挙され、各校は強制休校となった。
 1930年だけで、全国の高等普通学校・専門学校のほぼ大半が同盟休校に突入。全学生の約6割にあたる5万4,000人以上が参加する未曾有の事態となった。朝鮮総督府警務局の発表によると、学生1,300名が逮捕され、新幹会(しんかんかい)京城支部などの民族団体幹部約50名も検挙されたほか、多くの学生が退学処分を受けた。

民族系新聞へ言論弾圧

 『東亜日報』や『朝鮮日報』などの民族系新聞は、光州地方の学校で始まった同盟休校や、総督府警察による学生への暴挙を報道した。それを見た他道の学生たちが「我々も立ち上がろう」と連鎖的に同盟休校を開始し、学生運動を全土へと拡散させる契機となった。新聞各紙は検閲の目をかいくぐり、学生たちの正当性を訴え、警察の過酷な弾圧を批判的に報じた。
 これに対し朝鮮総督府は、1930年中、両紙に対して「記事差し押さえ」や「発刊停止(停刊)」などの強硬な言論弾圧を連発した。

「読書会」

 1930年の同盟休校(ストライキ)闘争が、朝鮮総督府の予想を超えて一糸乱れぬ組織力を見せた背景には、各学校に張り巡らされていた「読書会」という抵抗秘密結社の存在があった。特に光州では、1929年までに光州高普や光州農学校などのリーダーたちが横に繋がり、「読書会中央部」という抵抗秘密組織を形成していた。

3. 朝鮮総督府の弾圧と学生たちのその後

 徹底的な検挙と拷問

 朝鮮総督府警務局は、これら「読書会」の動きを「不逞鮮人(ふていせんじん)による背後操縦」と見なし、1930年以降、読書会メンバーに対して治安維持法を適用した。そして、徹底的な家宅捜索や検挙、苛烈な拷問を行った。
 学生たちは主に治安維持法違反、保安法違反、不敬罪、出版法違反などに問われた。警察や検察による取り調べは数ヶ月に及び、京城や光州の刑務所に未決囚として勾留された学生たちは、激しい拷問に晒された。

法廷での闘い

 光州高普などの学生たちは、法廷で「我々の行動は正当な民族の叫びであり、罪ではない」と堂々と主張し、傍聴席に詰めかけた家族や一般市民、学生たちを鼓舞した。しかし、結果として学生の多くに懲役1年から3年の不当な実刑判決が下された。
 刑期を終えた者や、執行猶予で釈放された学生たちを待っていたのは、総督府によって徹底された「放校(退学)処分」と「ブラックリスト化」であった。朝鮮全土の公私立学校への再入学・転学は実質的に不可能となり、エリートとしての将来の道(官吏、教員、大企業への就職など)は完全に閉ざされることとなった。

出獄後の足跡

 学業の機会を奪われた元学生リーダーたちは、たたかいを継続した。
* 地下の労働運動・社会主義運動への参加
 1930年代、国内に残った学生リーダーの多くは、当時さらに地下化した労働運動、農民組合運動、社会運動に身を投じた。彼らは工場や農村に入り、民衆と共に働きながら労働者や農民を組織して抵抗を続けた。
* 海外への亡命と武装闘争
 総督府の監視を逃れ、中国の上海(大韓民国臨時政府)や、満洲(中国東北部)へ渡る者が相次いだ。満洲に渡った者の中には抗日パルチザンに参加し、日本の関東軍や朝鮮総督府の軍隊を相手に、銃を取って戦った学生も少なくなかった。
* 戦後の新生朝鮮・韓国における中核へ
 1945年の光復(解放)を迎えた際、生き残った元学生リーダーたちは、南北それぞれの社会で重要な役割を果たすこととなる。

4. 1930年代後半の「皇民化政策」と弾圧の激化

 戦時体制下の「皇民化政策」

 1931年の満洲事変、1937年の日中戦争の勃発など、戦時体制の拡大に合わせて朝鮮総督府は、朝鮮を大陸進出の兵站基地とした。さらに1937年からは、朝鮮民族を天皇の臣民とする「皇民化(こうみんか)政策」を本格化させた。
* 「教育の軍隊化」と徹底的な監視
 学校に現役将校を配置し、生徒の日常を軍隊さながらの規律で縛った。毎日、朝礼や授業開始時には「皇国臣民ノ誓詞(私たちは大日本帝国の臣民です、等の誓いの言葉)」を唱和させ、学生たちの一挙手一投足を監視した。
* 日本語の強制と「創氏改名」
 1938年の第三次朝鮮教育令により、学校内での「朝鮮語」の使用が禁止された。休み時間の雑談であっても朝鮮語を話せば厳罰(罰金、体罰、停学処分など)に処された。さらに1940年には「創氏改名」が断行され、学生たちの氏名すら日本式への変更を迫られた。
* 戦時下の抵抗と特高警察の介入
 これらの政策に対する反発から、1930年代後半には「日本語強制への抵抗」などを理由とした小規模な同盟休校や授業拒否が散発した。しかし総督府は、これらを単なる学内ストライキではなく戦時下の「国家反逆行為(利敵行為)」として厳しく扱い、即座に特別高等警察(特高警察)が介入。首謀者を教護院(少年院)や刑務所に送ったため、組織的な運動の継続は困難となった。
* 神社参拝拒否運動と学校閉鎖
 皇民化政策の中で、最も激しい摩擦を生んだのが「神社参拝の強制」であった。抵抗した多くの朝鮮人キリスト教徒が弾圧され、獄に繋がれた。京城や平壌(ピョンヤン)などにあった崇実(すうじつ)学校などのキリスト教系私立学校では、学校ぐるみ、あるいは生徒・教員が一丸となって参拝を拒否する闘いが展開された。生徒たちが神社参拝の日に登校を拒否するなどの抵抗を見せると、総督府は学校そのものを廃校(強制閉鎖)処分とした。
* 兵力および労務動員
 当初は志願兵制度であったが、太平洋戦争末期には朝鮮全土に「徴兵令」が敷かれ、多くの朝鮮の若者が戦場へと動員された。また、炭鉱や工場などの労働力として駆り出される「国民徴用」も行われた。

5. 解放(光復)後
 1920年代から続いた朝鮮の学生による同盟休校闘争は、朝鮮総督府の苛烈な弾圧によって抑え込まれる結果となった。しかし、このとき弾圧され、獄に繋がれ、地下へ潜り、あるいは戦場へと送られた若者たちの経験と精神は決して途絶えなかった。
 1945年の解放(光復)後、とりわけ1960年の「四月革命(李承晩政権を退陣に追い込んだ学生革命)」や、1980年の「光州民主化運動」など、韓国の現代史において常に学生たちが社会運動の先頭に立った。戦前の先輩たちが繰り広げた同盟休校闘争の歴史は、現代の学生や若者たちの運動の原流として、脈々と引き継がれている。

以上

「1930年」年史 1930年の労働争議(読書メモ)

鐘紡争議・工場を囲む争議団(1930年4月)

服部製作所争議(1930年)

全国労働組合同盟大会(1930年)

 友人の皆さん! 灼熱の現場で奮闘している労働者の皆さん! 非道な会社や権力に歯を食いしばりながら、フソー化成や関西生コンなど大変な労働争議を闘っている労働者の皆さん! 日々労働組合運動に献身している皆さんに、心からの敬意を表します。

 ご無沙汰しております。皆さんお元気でお過ごしでしょうか。ブログの投稿は半年ぶりです。
 さて、戦前の労働争議に関する学習は「1919年」からスタートし、ようやく「1930年」に入りました。前年の「1929年」は朝鮮の元山ゼネストに始まり、最後は朝鮮・光州の民族独立・抗日の学生決起でした。光州の学生による独立運動・同盟休校闘争は、1930年にはたちまち朝鮮全国の学生の闘いへと広がります。この年、朝鮮の紡績女工やゴム労働者も大ストライキに決起します。

 一方、1930年の日本国内における労働争議の頻発とその中身の凄さは、正直圧倒されるばかりです。この年は、鐘紡(かねぼう)争議、岸和田紡績の朝鮮人と日本人女性たちの闘い、東洋モスリンの女性労働者による争議、東京市電1万人ストライキ、煙突男で知られる富士紡争議など、有名な大争議が続出します。また、東京東部の下町だけで100にものぼる大小の争議が起き、その中でも我が葛飾本田原町(私のかつて働いていた葛飾立石の原町成年寮の「原町」)の友禅工による地域ゼネストなど、今回初めて知る史料にぶつかりました。「我が立石に住み、働いていた人々に、こんな歴史と力があったのだ」と、ただただ驚いています。

 これら1930年の労働争議を生み出した背景や社会情勢も、凄まじいものがあります。前年からの世界恐慌、失業者があふれる街、治安維持法による弾圧・検挙・暴圧の嵐、朝鮮・台湾の民衆を弾圧する両総督府。そしてドイツではナチス(ナチ党)が第二党になります。翌年の満州事変、のちの「満州国」建国へと突き進む軍部の足音も含め、世界中にファシズムの激流・濁流が席巻していく時代でした。
 そのなかで起きた1930年の労働争議は、総参加人員19万1,805人(うちストライキなどの同盟罷業は906件、8万1,329人)と、当時として過去最高を記録します。あの時代、あの暴虐の嵐が吹き荒れるなかで、なお職場・工場・地域から抵抗する道を選んだ先輩労働者たちの労働争議、ストライキの記録です。資本家の横暴に「おめおめと屈服しないぞ」と闘った先輩労働者の姿が、そこにはあります。まさに「争議の年、1930年」です。

 戦前の労働運動や労働争議を「まとめ」ている本はたくさんありますが、「細部に神は宿る」ではありませんが、むしろ「まとめ」られていない中身にできるだけ触れてみたいと思っています。教科書は主に『日本労働年鑑』第12集(1931年版)と大原社研の「協調会史料」ですが、最近は「AI」との会話も楽しみ(警戒も、し)ながら学習しています。「1930年」の労働争議学習のスタートは、「1930年」年史からです。


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「1930年」年史:1930年の労働争議(読書メモ)
 写真:鐘紡争議・工場を囲む争議団(1930年4月)/ 服部製作所争議(1930年)/全国労働組合同盟大会(1930年)
 参照:『日本労働年鑑』第12集/1931年版(大原社研編) / 『社会・労働運動大年表 Ⅰ』(大原社研編)

【1月】恐慌の影響で中小工場の争議が頻発。朝鮮・光州学生独立抗日運動の「同盟休校」が朝鮮全国へ拡大・激化!
• 1.10:釜山の朝鮮紡績でストライキ勃発(~20日まで)
• 1.11:浜口内閣により金輸出解禁(金本位制への復帰)が断行される
• 1.25:無産者病院大崎診療所が開設
• 1.26:インドのガンディー(国民会議派)、第2次非暴力抵抗運動(塩の行進など)を開始
• 1.26:高群逸枝らが無産婦人芸術聯盟を結成(機関誌『婦人戦線』発刊)

【2月】製糸女工への賃金不払い工場が全国の8割に達する。長野県南安曇郡小倉村(現・安曇野市)で小作農民1千名が小作料引き下げ要求争議
• 2.1:山口県平生湾の曽根村村民1千名、塩田整理反対のむしろ旗を押し立ててデモを敢行
• 2.2:日本共産党に対する全国的な一斉弾圧(起訴461人)
• 2.2:産児制限相談所が開設(貧困家庭の母親が殺到)
• 2.6:傾向映画《何が彼女をそうさせたか》が封切られ、大ヒットを記録
• 2.15:大日本紡績聯合会が「第11次」となる大幅な操業短縮を強行
• 2.20:第17回総選挙(第2回普選:民政党273議席、政友会174議席、無産政党5議席)

【3月】昭和恐慌が本格化(1931〜32年の失業者は250万人に達する)。資本家の激しい反発のなか、労働組合法制定要求運動が展開
• 3.3:芝浦製作所(現・東芝)で減給に怒る労働者がサボタージュ闘争に突入(10月まで継続)
• 3.6:国際失業反対デー(全世界で抗議デモ)
• 3.9:赤坂のダンスホールでダンサー67人がストライキを決行
• 3.13:全国水平社京都府聯合会、宇治警察署員の被差別部落民への差別行為に対する糾弾闘争を開始
• 3月〜4月:総同盟・日本海員組合などが中心となり「労働組合法制定要求運動」を展開。資本家側は猛反発

【4月】農業恐慌の影響により中学進学志願者が激減。全国の鐘紡工場で3万6,000人が決起
• 4.6:大分県の豊肥線(熊ノ川駅付近)にて、走行中の機関車が炉内爆発。石炭に混入していたダイナマイトが原因で死者17人を出す大惨事(熊ノ川列車爆破事故)
• 4.9:鐘ヶ淵紡績(鐘紡)淀川工場で争議勃発。激烈な長期ストライキへ突入し、たちまち全国36の鐘紡工場(計3万6,000人)へ拡大。6月5日まで2ヶ月間に及ぶ死闘となる
• 4.10:労農党系の労働組合、横浜合同労組などが各地で結成される
• 4.20:東京市電で1万人規模の大ストライキ決行(前年12月に続く2回目)
• 4.22:ロンドン海軍軍縮条約に調印(日英米の3カ国が補助艦の保有比率などに合意)。※のちに「統帥権干犯問題」へ発展
• 4.27:第1回全日本婦選大会が開催される

【5月】大学生の就職率が激減(41.8% / 前年比7.5%減)。ロンドン軍縮条約をめぐり、右翼や野党が「統帥権干犯」と政府を猛烈に糾弾
• 5.1:第11回メーデーが開催。川崎では日本共産党系の武装デモ隊と警官隊が衝突(いわゆる「武装メーデー」)
• 5.3:岸和田紡績堺分工場でストライキ勃発。朝鮮人と日本人の女性労働者が固く結束して共闘するも、200人が検挙され6月13日に敗北に終わる
• 5.10:プロレタリア映画同盟(プロキノ)が機関誌『プロレタリア映画』を発行。映画・演劇・文学などのプロレタリア芸術運動が最高潮を迎える
• 5.20:東京帝国大学や法政大学の教授ら、日本共産党シンパ(支持者)として相次いで検挙される
• 5.20:大阪の湯浅伸銅所争議が発生。初めて「労働争議調停法」が適用されて妥結にいたる
• 5.29:東京・大崎の星製薬で422人がストライキに突入(~8.6まで。大量解雇で終息するも、労農党の山花秀雄らが支援)
• 5.30:中国・間島(かんとう)で朝鮮民衆による抗日大衆蜂起が勃発(間島事件。朝鮮総督府や日本軍による残酷な弾圧が行われる)

【6月】鋼材聯合会が全工場の5割で操業短縮を実施、大幅な賃下げへ。資本家団体が「労働組合法案」の廃案に向けて猛烈に策動
• 6.1:全国労働組合同盟(全労 / 組合員4万2,000人)が創立。「積極的ストライキと大衆闘争」の方針を決定し、多くのストを敢行
• 6.10:全協(日本労働組合全国協議会)の内部に「全協刷新同盟」が結成。本部の小児病的戦闘方針に反対し、大衆運動・職場闘争戦術を提起
• 6.11:日本商工会議所が「労働組合法案」に反対する運動を展開
• 6.25:浅野セメント川崎工場で争議が勃発
• 6.27:富士ガス紡績(富士紡)川崎工場で争議勃発(378人の解雇に反対して闘うも、総同盟側が解雇手当の増額で妥結)
• 6.27:日本工業倶楽部などの資本家団体が、労働組合法案の制定を阻止するため猛烈に策動

【7月】小作争議やインフラ工事・建設現場での大規模な衝突が相次ぐ。三信鉄道では朝鮮人労働者が飯場に立てこもり徹底抗戦
• 7.2:山梨県東山梨郡奥野田村(現・甲州市)にて小作争議が発生。小作地取り上げの強制執行に対する反対運動が激化し、小作人と警官隊が激しく衝突する大騒擾に発展(奥野田事件)
• 7.6:日本消費組合連盟(消費組合連合会)が結成される
• 7.7:ドイツ・ハンブルクにて第1回世界黒人労働者会議が開催。「黒人労働者国際組合委員会」が設立される
• 7.15:京成電鉄で112人がストライキを決行
• 7.20:全国大衆党が結成される(麻生久ら。スローガンは「帝国主義戦争絶対反対」。1931年に新労農党などと合同し「全国労農大衆党」を結成)
• 7.28:中国にて、彭徳懐率いる中国工農紅軍が湖南省の省都・長沙を占領し、長沙ソビエトを樹立(8.5に撤退)
• 7.29:三信鉄道争議。朝鮮人労働者600人が不払い賃金の支給を求めてストライキに突入し、飯場立てこもり闘争を展開。警官隊1,300人が襲撃し、314人が検挙される
• 7.31:スタンダード石油鶴見工場で争議が勃発

【8月】朝鮮・平壌でのゴム工場などゼネストが勃発。国内では大島製鋼所での闘いや「新興教育研究所」の設立
• 8.4:大島製鋼所で争議勃発(287人がストライキ。9月には闘争支援の一環として「プロレタリア小学校」が開設される)
• 8.6:朝鮮・平壌(ピョンヤン)のゴム工場など11工場で、賃下げに反対するゼネストが勃発
• 8.19:新興教育研究所が設立される(支配階級によるブルジョワ教育を批判し、工場や農村でのプロレタリア教育、サークル運動を展開)

【9月】被差別部落での「差別糾弾・教育闘争」が激化。東洋モスリン亀戸工場で2,400人の女性労働者が決起
• 9.4:岡山県三好村(現・和気町)の厚生校で差別事件が発生(10.6から子弟118人が同盟休校、10.27には少年団「ピオニール」を結成、12月に解決)
• 9.6:千葉県高神村(現・銚子市)の村民250人が、公金横領に憤激して村長宅や村役場を襲撃
• 9.14:ドイツ総選挙でナチス(ナチ党)が第2党に躍進
• 9.17:福岡県甘木町(現・朝倉市)で差別事件が発生。500人によるデモと児童の同盟休校が行われる
• 9.22:栃木県益子町で益子陶器従業員組合340人が賃下げ反対ストに突入(子弟250人も同盟休校で共闘)
• 9.25:東洋モスリン(洋モス)亀戸工場で争議勃発(女性労働者2,482人による戦闘的なストライキ。10.24には「亀戸市街戦」へ。11月19日に敗北し、組合は解散へ追い込まれる)

【10月】東洋モスリン「亀戸市街戦」の勃発、そして台湾「霧社事件」での抗日民衆蜂起
• 10.1:東京市従業員組合(東京市従)大会で左・右両派が激しく対立(10.8に左派の全協派が除名される)
• 10.1:奥むめお(奥村むめお)、東京・本所に「婦人セツルメント」を開所
• 10.24:東洋モスリン争議が「亀戸市街戦」へと発展(数千人の労働者や市民が亀戸の夜の街に押し寄せ、警官隊と激しく衝突)
• 10.27:台湾で「霧社(むしゃ)事件」が発生(日本統治下の台湾霧社で、台湾住民による大規模な抗日蜂起。日本官憲は1,000人以上の軍隊・警察を派遣し、非人道的な兵器も用いて武力鎮圧)
• 10.31:岡山・倉敷紡績(倉紡)万寿工場で争議勃発(女性労働者800人がストライキを決行)

【11月】歴史に名高い「煙突男」の出現と、ロンドン条約調印に揺れる浜口首相狙撃事件
• 11.1:富士ガス紡績(富士紡)川崎工場で争議勃発(9月の賃下げ発表に対し、総同盟側は受け入れたが、労農党派の労働者が反発してストライキに突入。30人の解雇に対し、11.16に「煙突男」第一号が出現、11.21に手当増額などで解決)
• 11.4:京阪電気鉄道(京阪)京津線で争議勃発(警視庁・警察側はストを阻止するため組合員全員を逮捕。これに憤激した組合側による11.9の電車転覆事件へと発展)
• 11.4:日本労働総同盟(総同盟)会長の鈴木文治が、内部対立により辞任
• 11.6:早稲田大学の学生らが、早慶戦の切符配分問題をめぐり騒動。学生6,000人のデモに発展
• 11.11:日本教育労働者組合が結成される(1931年に全協一般使用人教育労働部へと発展)
• 11.14:浜口雄幸首相が東京駅で右翼に狙撃され重傷を負う(ロンドン海軍軍縮条約調印に対する「統帥権干犯」の反感が背景)
• 11.25:東京市電(東交)、1千人を動員して賃下げ反対の陳情書を提出
• 11.25:広島の山陽紡績でストライキが勃発

【12月】学生・看護婦の抵抗と、政府の言論圧迫に対抗するメディアの共同宣言
• 12.4:京都帝国大学(京大)付属病院の看護婦80人が待遇改善を求めてストライキ(3人が解雇され、のちに敗北)
• 12.9:東京府豊島師範学校の生徒150人が同盟休校(学校ストライキ)に突入
• 12.11:京都のマキノ・プロダクションで争議が勃発(1931年まで継続)
• 12.15:東京・大阪の主要15新聞社、政府の言論圧迫に抗議する共同宣言を発表

【この年1930年】

• 朝鮮における未曾有の独立抗日学生闘争
 前年末の光州学生事件に端を発した「同盟休校」は、この年、朝鮮全国で100校以上に波及。全国の高等普通学校・専門学校のほぼ大半にあたる194校、全学生の約6割(5万4,000人以上)が参加する歴史的な闘いとなった(朝鮮総督府警務局発表で学生1,300名が逮捕)。また、朝鮮紡績をはじめとする多数の工場でもストライキが相次いだ。

• 昭和恐慌・農業恐慌の直撃
  世界恐慌の波が日本を襲い、輸出は前年比34%減と激減。1931~32年にかけて失業者は250万人に達した。政府は失業対策事業として道路・河川の改修工事などを実施した。

• 過去最高を記録した労働争議
  労働争議は年間2,289件、総参加人員19万1,805人(うちストライキなどの同盟罷業は906件、8万1,329人)に達し、当時として過去最高を記録。文字通り「争議の年1930年」となった。

• 日本国内でも学校ストライキ続発
 1929年から1930年にかけ、旧制姫路高等学校、佐賀高等学校、弘前高等学校、明治大学、早稲田大学などで、軍事教練や学校の官僚体制、思想弾圧に抗議する学校ストライキ(同盟休校)が続発した。

• 関東軍による侵略の陰謀と、世界を覆うファシズムの影
  関東軍は虎視眈々と本格的な中国侵略の謀略を進めていた。翌1931年9月に満州事変(柳条湖事件)を引き起こして本格的な侵略戦争を開始し、1932年3月には傀儡(かいらい)国家である「満州国」をでっち上げ、世界中の憤激を買うこととなる。また、ドイツではナチスが第2党に躍進し、世界中にファシズムの濁流が押し寄せる結節点となった。

以上

ああ与謝野晶子よ!  与謝野晶子よ!  (1927年の『祖国大日帝国と統治者天皇陛下を讃える歌』)

ああ与謝野晶子よ!  与謝野晶子よ!  (1927年の『祖国大日帝国と統治者天皇陛下を讃える歌』)

『山の動く日きたる』与謝野晶子
 山の動く日来る かく云へども人われを信ぜじ 山はしばらく眠りしのみ
 その昔において 山は皆火に燃えて動きしものを されど、そは信ぜずともよし
 人よ、ああ、ただこれを信ぜよ すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる 

 与謝野晶子は、1904年(明治37年)9月、『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表。1911年(明治44年)には史上初の女性文芸誌『青鞜』創刊号に有名な『山の動く日きたる』で始まる詩を寄稿した。

『君死にたまふことなかれ』(1904年9月旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
  ああおとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ
 末に生まれし君なれば   親のなさけは まさりしも
 親は刃やいばをにぎらせて  人を殺せと をしへ教えしや
 人を殺して死ねよとて  二十四までを そだてしや

 堺の街の あきびとの  旧家をほこる あるじにて
 親の名を継ぐ君なれば  君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも  ほろびずとても何事ぞ
 君は知らじな、あきびとの  家のおきてに無かりけり

  君死にたまふことなかれ、 すめらみこと皇尊は、戦ひに
 おほみづからは出でまさね  かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこころの深ければ もとよりいかで思おぼされむ

  ああおとうとよ、戦ひに 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに  おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に いたましく わが子を召され、家を守もり、
 安しときける大御代も  母のしら髪がは まさりぬる。

  暖簾のれんのかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を
 君わするるや、思へるや 十月とつきも添はで わかれたる
 少女をとめごころを思ひみよ この世ひとりの君ならで
 ああまた誰をたのむべき  君死にたまふことなかれ。

 与謝野晶子1904年(明治37年)9月のこの『君死にたまふことなかれ』に対して、文芸批評家の大町桂月は「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に真っ向から反論した。

 大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガは未決在監中に弁護士・平出修に晶子の歌集の差し入れを頼んでいる。1915年(大正4年)、晶子は婦人参政権を唱え、『婦選の歌』を作っている。この歌は山田耕筰作曲で第一回全日本婦選大会において披露された。

 しかし、しかし、1927年には天皇賛歌に至る。

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〔無題〕与謝野晶子(1927年の『祖国大日本帝国と統治者天皇陛下を讃える歌』)

粛として静まり、
皎として清らかなる
昭和二年の正月、
門に松飾無く、
国旗には黒き布を附く。
人は先帝の喪に服して
涙未いまだ乾かざれども、
厚氷その片端の解くる如く
心は既に新しき御代の春に和らぐ
初日うららかなる下に、
草莽の貧女われすらも
襟正し、胸躍らせて読むは、
今上陛下朝見第一日の御勅語。
   ×
世は変る、変る、
新しく健やかに変る、
大きく光りて変る。
世は変る、変る、
偏すること無く変る、
愛と正義の中に変る。
   ×
跪づき、諸手さし延べ、我れも言祝ぐ、
新しき御代の光は国の内外うちとに。
   ×
祖宗宏遠の遺徳、
世界博大の新智を
御身一つに集めさせ給ひ、
仁慈にして英明、
威容巍巍と若やかに、
天つ日を受けて光らせ給ふ陛下、
ああ地は広けれども、何処いづこぞや、
今、かゝる聖天子のましますは。
我等幸ひに東に生れ、
物更に改まる昭和の御代に遇ふ。
世界は如何に動くべき、
国民くにたみは何を望める、
畏きかな、忝なきかな、
斯かる事、陛下ぞ先づ知ろしめす。
   ×
我等は陛下の赤子せきし、
唯だ陛下の尊を知り、
唯だ陛下の徳を学び、
唯だ陛下の御心みこゝろに集まる。
陛下は地上の太陽、
唯だ光もて被おほひ給ふ、
唯だ育み給ふ、
唯だ我等と共に笑み給ふ。
   ×
我等は日本人、
国は小なれども
自ら之れを小とせず、
早く世界を容いるるに慣れたれば。
我等は日本人、
生生せいせいとして常に春なり、
まして今、
華やかに若き陛下まします。
   ×
争ひは無し、今日の心に、
事に勤労いそしむ者は
皆自らの力を楽み、
勝たんとしつる者は
内なる野人の心を恥ぢ、
物に乏しき者は
自らの怠りを責め、
足る者は他に分ち、
強きは救はんことを思ふ。
あはれ清し、正月元日、
争ひは無し、今日の心に。
   ×
眠りつるは覚めよ、
怠たゆみつるは引き緊まれ、
乱れつるは正せ、
逸それつるは本に復かへれ。
他ひとの国には他ひとの振、
己が国には己が振。
改まるべき日は来る、
夜よは明けんとす、東ひんがしに。
   ×
我等が行くべき方は
陛下今指さし給ふ。
止やめよ、財の争ひ、
更に高き彼方の路へ
一体となりて行かん。


(感想)
 『君死にたまふことなかれ』『山の動く日きたる』、大逆罪12名に捧げた詩などなど・・・心から感動する。同意する。断固支持する。今でも私の魂を震わせる。
 1927年の『祖国大日本帝国と統治者天皇陛下を讃える歌』頃からの彼女には心の底から失望する。絶望する。軽蔑する。情けない。言い訳は聞きたくない、ただただ罵倒したい。賀川豊彦といい、共産党転向大量幹部といい知識人は戦前戦後もこんなのばっかりだ。
以上